[#表紙(表紙.jpg)] あなたの知らない精子競争 BCな世界へようこそ 竹内久美子 目 次  第一章 精子競争・あなたの知らない世界    精子は暗躍する    ライヴァルには数で勝つ 男たちよ、ベラを見よ![#「男たちよ、ベラを見よ!」はゴシック体]    浮気のときには精子も元気 男たちよ、キンカチョウを見よ![#「男たちよ、キンカチョウを見よ!」はゴシック体]    マスターベーションとは何なのか 罪悪か功徳か[#「罪悪か功徳か」はゴシック体]  第二章 精子の争いここにあり    毒ヘビはなぜ�淫乱�なのか メスたちの企み[#「メスたちの企み」はゴシック体]    英国は昔も今も変わっちゃいない 女は魔物だ[#「女は魔物だ」はゴシック体]    売春の意味論 娼婦の戦略[#「娼婦の戦略」はゴシック体]    レイプは本当に男の側だけの戦略なのか 湧き起こる疑問[#「湧き起こる疑問」はゴシック体]    女はなぜやせたいのか その恐るべき偽装[#「その恐るべき偽装」はゴシック体]  第三章 形と大きさの進化論    真相は�藪�の中 睾丸は語る[#「睾丸は語る」はゴシック体]    男がペニスにこだわる理由は サクション・ピストン仮説[#「サクション・ピストン仮説」はゴシック体]    早熟のアフリカ人、奥手のアジア人 人間も動物の一種[#「人間も動物の一種」はゴシック体]  第四章 男と女の来《こ》し方、行く末    同性愛の謎に迫る 同性愛遺伝子の発見[#「同性愛遺伝子の発見」はゴシック体]    同性愛は「お手伝い」? 「練習」? それとも……    男と女の来し方、行く末  あ と が き  文春文庫化にあたって [#改ページ] 第一章 精子競争[#「精子競争」はゴシック体]・あなたの知らない世界[#「・あなたの知らない世界」はゴシック体]  精子は暗躍する  その昔、10cc(テン・シーシー)という名のロック・バンドが存在した。カッコいいと言うにはちょっと無理があるその四人組は、イギリスはマンチェスターの出身である。  彼らの真骨頂は抜群の音楽センスにあると言える。ポップでオシャレ、そしてユーモア。多分にシャレで作った「アイム・ノット・イン・ラヴ」という美しいバラードは世界的な大ヒットとなったから、あなたもきっとどこかで「10cc」に出会っているはずである。 「10cc」という不思議なバンドの名は、一説にはメンバー四人の精液を集めた量という意味だそうである。一人平均二・五cc。彼らが実際にサンプルを集めて測ったかどうかは知らないが、そうだとするとそれは、ちと情けない量と言わねばならなくなる。  人間の男が一回に放出するとされる精液は、実は三ミリリットル、即《すなわ》ち三ccである(「10cc」の名誉のために付け加えておくと二・五ミリリットルという見解もある)。連続記録に挑戦、最後は煙……というのであれば話は別だが、とにかく人間の男の精液の量はおよそ三ミリリットルである。前回の射精から日数がたっていれば少しは増えるとはいうものの、だいたい決まっている。ところがそこに含まれる精子の数が、時により場合により、驚くばかりの変化を見せていることをあなたは知っているだろうか。  もともとは鳥の渡りの研究をしており、一時期人間の方向感覚についても興味を持っていたイギリスのR・ロビン・ベイカーはこの現象に注目した。いったいどんな要因が精子の数を左右するのか──。彼は弟子のマーク・A・ベリスと組み、彼らの所属するマンチェスター大学の職員や学生に呼びかけ(またしてもマンチェスターである)、ボランティアを募った。実際のカップルの性生活の中で、放出される精子の数がどう変化するか、コンドームに回収して調べてみようというわけである。  ベイカーらの求めに対し、一五組のカップルが協力を申し出た。いずれも週に一〜三回の性交渉を持つという、ごく平均的なカップルである。ただ彼らには研究の詳しい目的について知らされてはいない。知らせると男も女も意識してしまい、精子の数そのものに影響が出る恐れがあるからである。彼らは単に性交《セツクス》とマスターベーションとで精液にどう違いが出るかを調べる実験だと告げられ、手順や注意事項が記された説明書とともに次のようなキットが渡された。 [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]  (一)コンドーム  (二)固定液入りのビン(精子を殺して固定する溶液がおよそ五〇ミリリットル入っている)  (三)厚紙製のスタンド(精液の放出されたコンドームを縛ってつるしておく。射精直後の精液は粘り気があるが、三〇分もするとさらさらになる。つるしておくのはこのように液化するのを待つためである。精液が液化したところでコンドームの先をハサミで切って固定液の中に落とし、ビンを振ってよく混ぜ、フタをする。ただこの実験では、たいていの性交《セツクス》が行なわれる時間帯というものを鑑《かんが》みてか、少なくとも八時間以上つるしておくようにと指示された)  (四)秘密の暗号が記されたシール(カップルが任意に選び、ビンに貼《は》る。プライヴァシーの保護と研究者の先入観を排除するため)  (五)アンケート用紙(サンプルのシールの暗号を記す。またそのサンプルが性交《セツクス》によるかマスターベーションによるか、前回の射精からの経過時間など様々な質問に答える)  (六)封筒(アンケートを入れて提出する) [#ここで字下げ終わり]  一五組のカップルはできるだけ従来のペースで性交《セツクス》するよう要請され、サンプルについても性交《セツクス》とマスターベーション各一個だけでもよいから提出するよう求められた。しかもプライヴァシーは厳重に守られる仕組みになっている。それでも一五組のうち五組は怖《お》じ気づいてしまったようだ。結局、一〇組のカップルが計三四のサンプルを提出し、うち性交《セツクス》によるものが一八個、マスターベーションによるものが一六個だった。  結果の分析にも先入観を排除する工夫がなされている。精子数の計測など、サンプルの分析にはベリスが、情報の分析にはベイカーが関わった。互いに連絡は取り合わない。そして最後に双方のデータをつき合わせるのである。ちなみにコンドームの着用が結果に影響を及ぼさないか、という気掛りがあるわけだが、それはほとんど関係ないことが確かめられている。  こうして細心の注意を払い、万全の対策を講じた末の研究結果が現れた。それは彼らの予想をはるかに上回る、非常にクリアーなものだった。  誰しも予想するように、まず前回の射精からの経過時間とともに精子数が増えるという傾向が、性交《セツクス》、マスターベーションを問わずに存在する。それはそうだろう。何しろ精子は溜《たま》るのだ。しかし性交《セツクス》の場合、精子の数にはもっと微妙な問題が、しかもこちらの方がはるかに重みを持って絡《から》んでくる。前回の射精からパートナーといかに一緒に過ごし、また過ごさなかったか、その時間配分なのである。絶対的な時間ではなく、割合が問題なのだ。  たとえば前回の射精からの時間が一日であれ三日であれ、もしパートナーとほぼ一〇〇パーセント一緒に過ごしていたとする。すると、放出される精子は驚くほど少ない。だいたい二億個止まり、五〇〇〇万という例すらある。一緒に過ごした時間が五〇パーセントくらいだと三億から五億といったところ。ところが一緒に過ごした時間が一〇パーセントにも満たないということになると、精子の数はいよいよもって増加する。最低で四億数千万、最高で六億五〇〇〇万近くにまで達してしまうのだ。べったり一緒という場合に比べ、平均で三倍近い開きがある。  これは、もし一人の男からいくつものサンプルを得て調べたとしても同じ傾向が見られることになるだろう。同じ三日のインターバルであったとしても、彼がパートナーとほとんど一緒に過ごしたか、半分くらいしか一緒にいなかったか、それともほとんど一緒にいなかったかによって同様の開きが生ずるわけである。  片やマスターベーションの場合には、精子数とパートナーとの共有時間の割合との間に何ら相関はなかった。単に前回射精からの時間だけが問題だったのである。  精子がつくられる速度は、パートナーと一緒に過ごしていようがいまいが一定している。ところがそれが性交《セツクス》という形で放出されるとなると、心理的にか性的刺激によるのか、とにかく何らかのメカニズムが働き、数が調節されるらしいのである。  この予備実験に大いに気をよくしたベイカーとベリスは、人間の性行動に関する研究にいよいよ本格的に取りかかることとなった。またしてもマンチェスター大学の関係者にボランティアを募ったが、今度は三〇組以上のカップルの協力を得ることに成功した。それは、コンドームによる精液の回収や前回射精からの時間、その間にパートナーと共有した時間の割合といった事柄はもちろんのこと、フロウバック(flowback)と呼ばれる、性交《セツクス》の後、女の膣《ちつ》から流れ出る精液と女性体液の混じり合った液(白い固まり)の回収、性交《セツクス》時の女のオルガスムスの有無、有った場合には射精との時間関係《タイミング》、性交《セツクス》が月経周期のいつ頃に当たっていたか、カップルの年齢、身長、体重、男の場合には睾丸《こうがん》の体積までも調べるという凄《すさ》まじい研究である。睾丸の体積は、男の左の睾丸の長径と短径をコンパスのような計測器で測り、睾丸を回転|楕円《だえん》体とみなして割り出している(ちなみに人間の男の睾丸は右の方がやや大きい傾向にある)。詳しいことはこれから徐々に紹介していくとして、まずは予備実験と同様の精液回収実験について見てみよう。二五組が協力し、サンプルは計一五一個も集まった(性交《セツクス》によるものが八四個、マスターベーション六七個)。  どうでもいいことかもしれないが、この二五《ヽヽ》組のカップルは男女それぞれ二四《ヽヽ》人ずつから成っている。というのも研究が進むうちに男性被験者の一人であるO氏が──それぞれの被験者はカップルごとに、イニシャルとは関係ないアルファベットの名が与えられている──パートナーと別れ、あろうことか同じ被験者仲間のC氏のパートナーと新たにコンビを組んでしまったためである。O氏は元パートナーとの性交《セツクス》によるサンプルを一個、新パートナーとの性交《セツクス》によるものを二個、マスターベーションによるものを八個提出した。他方、傷心のC氏もそれでもけなげにパートナーを失うまでに行なった性交《セツクス》によるサンプルを二個、マスターベーションによるものを一個提出している。  この研究の大きな収穫は、人によっては実にいくつものサンプルを提出したということである。B氏などはこのうえなく協力的で、性交《セツクス》によるサンプルを二七個も、マスターベーションによるものも一七個提出している(おそらく性的活動自体も活発なのだろう)。驚いたことにB氏は被験者中最年長の四四歳である。身長一八〇センチメートル、体重七九キログラム、そして睾丸(左)は二〇立方センチメートルで、これはさほど大きい方ではない。しかしパートナーは二四歳、身長一七五センチメートル、体重五八キログラム。なるほど、このあたりにB氏の元気と協力的態度の秘密が隠されているらしい。このカップルは一緒にいる時間の割合までもが飛び抜けて高いのである(その後いろいろな情報を得るうちに、私はこのB氏というのはもしかしたらベイカー本人ではないのか、と考えるようになった。非常に客観的な証拠を挙げるとすれば、実験時のベイカーの年齢がこれと一致することである。その他、ベイカーは再婚して若い奥さんを娶《めと》っているらしいこと、イニシャルとは関係ないことになっているが、B氏というネイミング、そして何よりこの異様に協力的な態度……。いや、ほんの邪推に過ぎなく、間違っていたらベイカーさんごめんなさい)。  B氏が提出した性交《セツクス》によるサンプル二七個のうち、前回の射精も性交《セツクス》だったというケースは一四個あった。それらをパートナーとの共有時間が八一パーセント以上である五個、六一〜八〇パーセントである八個、四一〜六〇パーセントである一個に分けてみる。するとそれぞれの区間における精子数(サンプルが複数個なら中央値、つまりこの場合ならサンプルを精子数の順に並べたときに中央に位置するサンプルが示す値)は順に、二億六〇〇万個、四億七七〇〇万個、四億九五〇〇万個、と予想通りだんだん多くなっていくのである。  N氏もまた大変協力的な人物である。彼は性交《セツクス》によるものを二二個、マスターベーションによるものを二個提出しているが、前回の射精も性交《セツクス》だった性交サンプルは一九個である。B氏と同様に共有時間八一パーセント以上である四個、六一〜八〇パーセントである二個、四一〜六〇パーセントである六個、二一〜四〇パーセントである六個、一〜二〇パーセントである一個に分けてみると、精子数は順に、六七〇〇万個、一億四三〇〇万個、二億一〇〇〇万個、一億九六〇〇万個、二億九六〇〇万個だった。やはり同じような傾向が見出《みいだ》されるのである。もっとも、N氏は全体に精子数が非常に少ない人で、その点が気になると言えば気になるのだが(N氏の睾丸サイズは一七立方センチメートルで決して小さい方ではない)。  ともあれB氏、N氏のように多数のサンプルを提出した人、性交《セツクス》、マスターベーションのサンプル各二〜三個の人、どちらか一方しか提出していない人、等々も含め、データは徹底的に分析された。  そうしてわかったのは、やはり精子の数にはパートナーとの共有時間の割合が大きく関係する、但《ただ》し前回射精がマスターベーションの場合にはさらに遡《さかのぼ》り、前回性交からの時間内容が問題だということである。マスターベーションが途中に入ると、入らなかった場合に比べ確かに精子の数は減少するが、その充填《じゆうてん》は意外なほどに早い。わずか三日で影響が消えてしまうという。マスターベーションは精子の数にはあまり影響を与えないようである。彼らの計算によると、パートナーと一緒にいる時間が一パーセント増《ヽ》えるごとに──もし他の条件が同じであるのなら──放出される精子の数は平均三四〇万個ずつ減《ヽ》っていく勘定であるという。精子というものは基本的にどんどん生産される方針にある。ただ、条件次第ではその放出が抑えられ、あるいはそうこうするうち組織の中に吸収されたり、尿の中に排泄《はいせつ》されてしまうらしいのだ。  女の月経周期は精子の数に影響を与えはしないだろうか。妊娠の可能性のほとんどない時期に、多くの精子を送り込んでみたところで仕方ない。逆に、妊娠の可能性の高い排卵期には大いに精子を送り込んでチャンスをものにすべきだろう。男はそれらを見分け、実際に精子の数を調節する能力を持っていても不思議はないはずだ。ところがベイカー&ベリスによると、女の月経周期と放出される精子の数との間には全く相関がないという。あって然《しか》るべきなのに、ない。女の排卵は他人に対してはもちろんのこと、本人にすら自覚できないようにされている(確かに排卵の頃、女に起こる様々な身体的変化は何とはなしに情報を女に与えるが、完璧《かんぺき》なものではない。後から振り返って、あああの頃が排卵だったのかと気づくようなものである。人によっては腹部に痛みを感ずることもあるが、それとても完全なサインではない)。それと同様に月経周期も、少なくとも他人に対しては隠蔽《いんぺい》されているのである。  排卵はいつ頃起きるか、月経周期のいつ頃に妊娠しやすいか、またしにくいかを現代では男も女も知っている。しかし人間はそういうことを知識として知り、たとえその情報を得たとしても、深層の心理、生理的なしくみといった遺伝的進化のレヴェルではまだ�知る�には至っていない。また、時には�知らない�ように進化してきてもいるのである。なぜ�知らない�ように進化してきたのか、ということがこの分野の一つの論点になっているくらいである。  女のオルガスムスについてはどうだろう。性交《セツクス》時のオルガスムスは膣内を陰圧にし、精液を強力に吸引する。女にオルガスムスが起きたなら、男は大いに精子を放出し、せっかくの女の歓待に応《こた》えるべきではないだろうか。  ところがこれも関係ない。精子の数は女のオルガスムスの有無、それと射精との時間関係《タイミング》などにも一切関係がないのである(女のオルガスムスは実は女にとっての大変な武器であり、そのタイミングは精子が女によく受け入れられるかどうかの大変重要なカギとなっていることをベイカー&ベリスは突き止めている。詳しくは第二章で)。  では睾丸の大きさはどうか。睾丸が大きい男ほど多くの精子を放出して当然のはずである。さすがにこれには相関がある。男の体重にも相関が、睾丸ほどではないにしろ存在する。ただ、身長はほとんど関係ないようである。  しかし結局、精子の数を決める、極めて強い要因はといえば次の三つであることがわかった。  前回性交からの時間、その間のパートナーとの共有時間の割合、そして女の体重である。  女の体重とは彼女の繁殖力の強さを示している。太った女の方が(むろんあまりに太っていると話は別だが)妊娠、出産、出産後の授乳など様々な局面を有利に切り抜けていくだろう。ならば男は、そういう女に対してはより多くの精子を放出する、そして受精の可能性をますます高めようとすべきだからである。しかし、「女の体重」も「前回射精からの時間」も、精子の数に与える影響という点では「パートナーとの共有時間の割合」には及ばなかった。パートナーと一緒にいるかどうかということは、よほど重大な問題であるらしい。  それにしてもなぜ、一緒にいると精子の放出が抑えられ、いないと多数の精子が放出されるのか。勘のいい方ならとうに察しはついておられることだろう。  男にとってパートナーとよく一緒に過ごしていたということは、即ち彼女をよく見張っていたということである。他方パートナーとあまり一緒に過ごしていないということは、即ち彼女をよく見張っていなかったということである。その間に彼女が何をしていたかはわからない。もしかして……。多数の精子を放出するのは、そのまさかの可能性、つまり彼女の卵《らん》が別の男の精子によって受精させられる危険を回避する、とりあえず数を多く送り込むことによって阻止しようとする、そういう無意識のうちの対策なのである。逆にパートナーと一緒に過ごせば過ごすほどその危険は少ない。ならばそれほど多くの精子を放出する必要はないということになるだろう。いや、単に卵を受精させるだけなら、精子はむしろ少なめの方が効率がよいことがわかっているのである(但しこれは競争相手がいない場合の話だが)。  こうした卵をめぐる複数のオス(男)の精子どうしの争いは、|精 子 競 争《スパーム・コンペティション》と呼ばれている。パートナーとの共有時間の割合で精子数が変化するということは、|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》が人間でも現実に起こっている一つの有力な証拠と言えるのである。  パートナーとあまりべったり一緒だと飽きてくる。たまに会うと新鮮で燃える、などと人は言うわけだが、それはここに示されるように、|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》を通じて獲得された(特に男の方の)心理であるかもしれない。 『マディソン郡の橋』のフランチェスカの旦那《だんな》は、五日ぶりに我が家へ戻ってきたというのに彼女に何もケアーしてやらなかった。もっともフランチェスカは旦那を避けていたのだが……。それにしてもまったく、彼は大変なミスを犯している。どこまでも気の回らない旦那ではないだろうか。 [#改ページ]  ライヴァルには数で勝つ 男たちよ、ベラを見よ![#「男たちよ、ベラを見よ!」はゴシック体]  |精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》が激しい状況では多くの精子を放出する。そうでなければ少しの精子でいい。それはどうも動物界に普遍の法則のようである。人間とて例外ではなかった。しかし人間を相手に精子をコンドームに回収させたり、それが性交《セツクス》によるものかマスターベーションによるものかを申告させる、などという研究がそうそう実現するものではない。ベイカー&ベリスは、これまでせいぜいアンケートか面接くらいしかありえなかったこの種の研究に、輝く金字塔を打ち立てた。あのキンゼイ報告もハイトレポートも、その他の性報告にしてもさすがにここまで踏み込んだ研究を行なってはいないのである。彼らはイギリスの、しかもマンチェスターというイギリスでもとりわけ進取の気象に富んだ土地で地の利を得たのかもしれない。日本で、いやアメリカでもイギリスの他の地方でも、こんな破天荒な研究は無理だったのではないだろうか。そこで、というわけでもないのだが、ここはひとまず人間を離れ、人間以外の動物に目を転じてみることにしよう。|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》のありさまが一目瞭然《いちもくりようぜん》にわかる動物である。  ブルーヘッドというベラの仲間の魚がいる。すんでいるのは主にカリブ海で、残念ながら日本の近海にはいない。サンゴ礁《しよう》が点在する浅い海がそのすみかである。  この魚の生活史は少し変わっている。卵《たまご》や稚魚の時代には多くの魚と同様、浮遊生活を送っているが(この間にほとんどが他の魚などに食われてしまう)、孵化《ふか》後二カ月くらいするとサンゴ礁をすみかと定める。体長が四センチメートルを越えるほどになったところでオスもメスも性的に成熟、繁殖活動を開始する。この段階の体の色はオス、メスともに区別はないのだが、次の二つのタイプがある。  一つのタイプは黄色と黒の、もう一つは灰緑色との、それぞれ縞《しま》模様である。体色は一方のタイプから他方へ、そしてまた元のタイプへと、オス、メスともに目まぐるしく変化する。  ところが体がさらに成長し、六〜八センチメートルくらいにまで達すると、彼らの体色はひときわ著しい変化に見舞われる。体の前半分が、まるで頭巾《ずきん》を被《かぶ》ったかのように鮮やかなブルーに変わってくるのだ。ブルーヘッドの名はこの点に由来する。そのとき体の後ろ半分も黄緑色に変化し、ブルーとの境界には黒い二本の線が腕章のように入ってくる。  オスもメスも成長すればブルーの頭になる。だからブルーの頭の個体にはオス、メス両方いるのだろうと当然考えたくなるが、そうではない。メスの場合には頭がブルーになる少し前から精巣が発達し始め、ブルーに変色するとともにオスへと性転換を遂げているのである。だからブルーの頭のメス、というものは存在しない。ブルーの頭の個体はすべてオスである。性転換はサンゴ礁や岩礁など、何か閉ざされた空間にすむ魚ではむしろ普通の現象である。  なんだか話がややこしくなってきてしまったが、こういうことである。ブルーヘッドのオスには二通りある。ひとつはブルーの頭を持ち、体も大きいオス、もうひとつは頭がブルーではなく、体の色もメスと同じで大きさもメス同様に小さいというオスである。しかも前者のオスには二通りの前歴がある。生まれつきオスで体の成長とともにブルーの頭になったか、それとも生まれつきはメスだが、体の成長とともに精巣を発達させてオスになり、頭もブルーになったか、である。この経歴は外見からはわからない。生まれつきのオスはさすがに精巣をよく発達させており、解剖してみて初めてそれがわかるのである。  しかしここで問題にしたいのは、そういうことではない。体の色も大きさも違う二種類のオスが、実は繁殖戦略までも異にしているということである。  ブルーの頭で体も大きいオスは縄張りを構え、やって来るメスと次々ペアを組んで繁殖する。頭のブルーはおそらく、かつてコンラート・ローレンツがサンゴ礁などにすむ魚がなぜ色とりどりの体色を持っているかを説明したように、他のオスに対する「侵入お断わり」の意思表示なのだろう。一方、体が小さくメスと同じ体色のオスはこれぞと思う一匹のメスを十数匹、時に数十匹もの同じ境遇のオスとともに取り囲み、追いかけ回すのである。メスの産卵のしかたを基準にして、前者はペア産卵、後者はグループ産卵と呼ばれている。  プエルトリコ大学のD・Y・シャピロらはこの現象に注目した。ペア産卵とグループ産卵とでは卵をめぐる精子どうしの争いにあまりの違いがあるではないか。彼らはプエルトリコの南西の海岸のサンゴ礁で、ブルーヘッドの精子と卵の回収実験を行なった。  サンゴ礁の大きさにもよるが、一つのサンゴ礁にはだいたい数百匹のブルーヘッドがすんでいる。頭がブルーで体も大きいオスは、サンゴ礁の�風下�とでも言うべき、潮の流れの影響を受けにくい場所に繁殖用の縄張りを構えている。毎日午後、ある決まった時間が近づくとメスたちは俄然《がぜん》そわそわとし始める。産卵時間が近づいてきたのだ。メスはその日一回限りの産卵を、さてどのオスのもとでしようかなと大いなる選択を迫られるのである。  縄張りを構えているオスを訪れたメスは、まず彼の精一杯のディスプレイで歓迎を受ける。胸びれを小刻みに震わせながらメスの頭上を小さく何回も旋回。これが四〜五秒間続く。メスは、もし彼を気に入らなければ別のオスを訪問すればよい。しかし彼を気に入った場合には突如、奇妙な行動を開始する。頭を上に、体をほぼ垂直に保ちながら海中を猛スピードで上昇し始めるのだ。オスもすかさず追尾。そしておよそ一メートルほど登り切ったところでさっと身を翻《ひるがえ》すと産卵、オスも間髪を入れず放精する。こうして目出たく受精の成立となるわけである。  もっともこのとき思わぬアクシデントに見舞われることもある。産卵と放精の一瞬の隙《すき》をつき、別のオスが現れるや素早く精子をひっかけ、目にも止まらぬ早さで逃げ去っていくのである。それは縄張りを持たず、外見上はメスと区別できないタイプのオスである。こうしたオスの行動はストリーキングと呼ばれている。ストリーキングはベラの仲間では珍しいことではないが、ブルーヘッドではそう起こるわけではない。それというのも縄張りを持たないオスにも、グループ産卵という次に示すようなれっきとした繁殖方法があるからだろう。  メスが訪れるのは縄張りオスのもとだけではない。サンゴ礁には産卵スポットとでも呼ぶべき場所が存在する。どんなに大きなサンゴ礁であってもそれは一カ所だけである。やはり潮の流れの影響を受けにくい場所で、そこへサンゴ礁内の、縄張りを持たないすべてのオスが集まって来るのである。ブルーヘッドではないが、日本近海にすむホンベラなどは、岩礁のあるお決まりの場所へ周辺の二キロメートルにもわたる岩礁から合計で一万匹以上ものオスとメスとが集まってくるほどだ。  こうした産卵スポットでは多数のオスとメスとが泳ぎ回り、上を下への大騒ぎである。彼らは何をそんなに慌《あわ》てているのか。しかしよくよく見るならば、ある秩序が見出《みいだ》されてくるだろう。一匹のメスを何匹ものオスが追いかけ回しているのである。ペア産卵の場合とは違い、オスがディスプレイをすることはない。第一、そんなヒマなどないのだ。メスは、オスたちに追いかけ回されているうちに�産気�づくのだろうか、やはり突如として海中を急上昇、身をくねらせて産卵する。するとオスたちがドヤドヤと放精、あたりには精子と卵の入り混じった�雲�がもうもうと湧《わ》き起こる。十数匹ものオスが一斉に放精するのだから当然といえば当然なのだが、それにしても物凄《ものすご》い量である。  ペア産卵とグループ産卵とではこんなにも事情が違っている。片やライヴァルオスがいない状況であるのに対し、片やライヴァルオスが嫌というほどいる状況。グループ産卵ではオスが多数存在するのだから精子の全体量が多いのは当然として、一匹一匹のオスが出す量についてはどうだろうか。ペア産卵の場合と変わらないのだろうか。  シャピロらは徹底的に精子と卵を回収することにした。研究者はシュノーケルをつけて海中に待機する。卵と精子が放たれるや急いで現場まで泳いでいき、袋をさっとひと振りして海水ごと集めるのである。袋の大きさは六七×六〇センチメートル、容量五〇リットルというからちょうど家庭用のゴミ袋程度である。口元にアクリルの止め金が付いており、簡単に開閉ができるようになっている。  船に持ち帰った海水はまずよく掻《か》きまぜて均一にし、そのうちの五〇〇ミリリットルが精子を、一九四〇ミリリットルが卵を数えるために使われた。それぞれの液を染色、固定液で固定するなどし、何種類かのフィルターを使い、精子と卵、その他のゴミなどを漉《こ》し分ける(ここまでの作業は船の上で行なう)。最終的には顕微鏡下で数えるのである。  しかしこういう方法で本当に精子も卵もすべて回収できているのだろうか。シャピロらはそれを確かめるべくこんな実験を行なっている。  海中から捕えてきたブルーヘッドのオスの腹を押え、精子を取り出す。これを染色し、固定。海水を加えてある程度まで薄めた液を作り、風船に注入する。そのとき二〇ミリリットル入りのものと四〇〇ミリリットル入りのもの、の二種類を用意する。というのも前者の風船の直径は三・四センチメートル、後者は九・一センチメートルになり、それぞれ実際のペア産卵とグループ産卵の際、直後に海中に広がる�雲�の大きさにほぼ匹敵するからである。  風船は、実際にブルーヘッドが産卵するサンゴ礁にヒモでつながれて固定された。こうしてまず、海中に漂っている風船を一人の研究者が破裂させる。そして先の回収実験のときと同様、別の研究者が急いで泳いで行って袋に回収。さらに同様の手続きで精子数をカウントした。このとき対照《コントロール》として回収用の袋の中で風船を破裂させるという実験を行なう。  精子についてはこれでいいとして、卵の回収が確実かどうかに対しては風船は使わなかった。そもそも卵は精子ほどには数多く放出されず、海中での広がり方も少ない。しかも精子と違い、一度に全部放出され、その数はメスの体の大きさにほぼ準ずることもわかっている。そこで卵についてはメスの腹を押えてそれらを全部絞り出し、どれくらいの大きさのメスがどれくらいの数を産むのかを調べる。そして実際の産卵で回収された卵の数と照らしあわせてみる、という手続きが取られることになったのである。以上のような検討が加えられてわかったのは、精子も卵も見事なほど完璧《かんぺき》に回収されているということである。実験のやり方はこれでよかったのだ。  では、実際の回収実験の結果はどうなっているだろうか。まずペア産卵の方から見てみるとする。五匹の縄張りオスによる計一六七回分の精子、そして卵が回収された。  それによるとメスは一回に一〇〇〇〜一万個くらいの卵を産んでいる。一方オスは数十万〜二〇〇〇万個くらい、平均で八五〇万個の精子を放出する。縄張りオスの元には一日に三〇〜四〇匹のメスが訪れ、オスはほぼメスの数と同じ回数の放精をするが、回を重ねたからといってそれらが枯渇するというようなことはないようである。しかし興味深いのは放出される精子の数が、一匹のオスに注目してみても毎回毎回驚くばかりに変化するということだ。  たとえばオス1は、その日およそ二時間の産卵時間のうちの比較的早い時間帯に一回につき随分多くの精子(一〇〇〇万個くらい)を放出する。ところが遅い時間帯には少ししか出さない(六〇〇万個くらい)。その一方でオス4などは早い時間帯には少なめ(八〇〇万個くらい)なのに、遅い時間帯には多め(一一〇〇万個くらい)なのである。これはいったいどういうことであろうか。個性やクセの問題なのか。  シャピロらの分析でわかったのは、オスはどうやら、メスの産む卵の数に応じて放精しているということである。卵の数と精子の数との間には強い相関があるのである。しかし実を言えば、それよりももっと強い相関があったのは、メスの体の大きさ(体長)と精子の数についてである。要はこういうことであるらしい。  オスは本当のところは産み出された卵の数に応じて放精したい。効率よく受精させるのにはそれが一番いい。だが、卵の数を見定めたうえで精子の数を調節する、などという悠長なことを言っているヒマはない。海中に産み出された卵はたちまちのうちに広がり、潮の流れとともにいずこへともなく消え去って行くだろう。メスが体をくねらせて産卵するや、すかさずオスが放精するのは、その僅《わず》かなチャンスを逃がさないためである。  彼らは次善の策としてメスの体の大きさを目安に放精する。そうしてあらかじめ精子の数を調節しているのである。オスはメスを誘うために盛んにディスプレイを繰り返すが、それは「うむ、このメスはなかなか体が大きくていいぞ。きっと卵もたくさん産んでくれるだろう。じゃ、こっちもうんと精子を出さなくちゃ」などと放精の準備を整える、猶予《ゆうよ》の時間であるかもしれない。オスの精管《スパーム・ダクト》の出口付近には括約筋が付いていて精子の数を調節することができるのである。実際、メスを体長に従い、S(六センチメートル以下)、M(六〜六・八センチメートル)、L(六・八センチメートル以上)の三サイズに分類すると、LサイズのメスはSサイズのメスに比べ、平均で二倍もの精子をオスに放出させているという。  こうして結局わかったのは、オス1が早い時間帯に多くの精子を放出し、遅い時間帯には少なめに出す、オス4がその反対であるという不思議な現象の理由である。それは�個性�やクセの問題ではなかった。何のことはない、それはオス1のもとには体の大きいメスたちが主に早い時間帯に訪れ、遅い時間帯には小さめのメスたちが訪れる、片やオス4のもとには早い時間帯に小さめのメスたちが、遅い時間帯には大きいメスたちが訪れるというそれだけの話だったのである。なぜメスによってそんな違いがあるのかはわからない。オス1にはオス1の、オス4にはオス4の各々ファンであるメスがおり、彼女らが体の大きさによってそれぞれ待ち合わせの時間を決め、出かける、などというようなことをしているのだろうか。  それではグループ産卵についてはどうだろうか。この場合にも、メスはペア産卵のときと同様、一度に全部の卵を産んでいる。つまり数千個である。オスも卵の数に応じて、ということは実際にはメスの体の大きさに応じて精子を放出するはずである。ところが卵を取り囲む精子の数は四億個以上もあるのだ。二〇匹近いオスが一斉に放精するのだから多いのは当たり前だが、それにしてもこの数から逆算すると一匹あたりの精子数が異常に多いのである。シャピロらによるとグループ産卵をするオスは、一回に平均で五三〇〇万個もの精子を放出するのだという。ペア産卵の場合の何と六倍以上だ。  どうしてこんなに精子を出さなくてはならないのか。グループ産卵のオスは体が小さいというのに……。  言うまでもあるまい。グループ産卵では凄《すさ》まじいばかりの|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》が展開されているのである。妻をガードしていなかった隙に別の男が……などと勘繰っている場合なんかではないのである。ライヴァルは現実に、今そこに姿を現しているのだ。ベラに比べれば人間など、まだまだ気楽なものなのである。 [#改ページ]  浮気のときには精子も元気 男たちよ、キンカチョウを見よ![#「男たちよ、キンカチョウを見よ!」はゴシック体]  妻を寝取られないようにするためには、まず彼女をよくガードすることである。  もしガードが甘かったなら多量の精子を放出し、そのリスクを補う……。  それはいい。しかしそのガードをしていなかったときの男自身の行動はどうか、男は浮気をしないのだろうか。いや、もちろん男は時として浮気をする。ではその浮気のときに、当の男の精子の数はどういうことになっているだろうか。  ベイカー&ベリスはボランティアであるカップルに対し、ありとあらゆる質問と調査を試みた。中にはよくぞここまで、と思わせるようなものも含まれている。けれどさすがの彼らも、浮気という問題にだけは立ち入ることができなかった。要らぬおせっかいを焼いて大切なボランティアの仲を壊してしまっては、それこそ本末|顛倒《てんとう》だからだろう。彼らはボランティアを追及するようなまねはしなかった。その代わりに行なったのはこんな実験である。  ラットのオスとメス、それぞれ一二匹を用意する。ラットは実験用のドブネズミである。  適当にペアを作り、メスが発情するまでケージの中で同居させておく。同居といっても真ん中に金網の仕切りが入っており、相手の行動を観察することはできても交尾はできない仕掛けになっている。メスの発情周期は四〜五日である。この実験では発情周期の同期したメスを用い、彼女らが発情したのを見計らって�同居�を始めさせる、そして次の発情を待つという段取りになっている。  四〜五日たってメスが再び発情する。と、彼らはそれまでとは別の仕切りのないケージに移される。このとき二種類の違った条件が与えられる。�同居�していた相手と今度は本当の意味で同居するか、それとも全く新しい相手と引き合わされるか、である。それぞれ六ペアずつで試された。  二種類の条件は何を意味するのだろう。�同居�していた相手と本当に同居するということは、オスにとってはガードしていたメスと対面し、交尾するということである。全く新しい相手と同居することは、ガードしていなかったメスと対面し、交尾する、つまりは浮気をすることに相当するだろう(とはいえラットには元々はっきりとした夫婦関係がないので浮気という言葉は適切でないかもしれないが)。この条件の違いは精子の数にどう影響を及ぼすだろうか。前者では六匹のオスのすべてが交尾に成功、後者では四匹が成功、二匹が失敗した。  交尾に成功した一〇ペアはいずれもオスが一回射精したところで引き離され、メスはそれから五分たったところでエーテル麻酔される。気の毒だがメスにはこうして死んでもらい、生殖器の内のどの位置にどれくらいの数の精子が辿《たど》り着いているかを解剖して調べるのである。  オスの射精から二〇〜二五分たったとき、メスの生殖器は子宮|頸部《けいぶ》と子宮との間で切断される。子宮の方がより奥に位置することはもちろんである。そして子宮の手前の部分、つまり子宮頸部、膣《ちつ》、交尾栓(ラットでは他のオスの精子の侵入を阻止すべく、放出された精子の一部が膣の入り口付近で固まって栓を形成する。人間の精液が射精後しばらくの間、やや固まった状態にあるのは交尾栓の名残りであるとも考えられる)と子宮とはそれぞれ、精子を一つ一つ分離するための溶解液の中に投入された。交尾栓はさすがに溶けるのに時間がかかり、五日ほどかけてようやく分解した。  精子の数を数えてみると、�ガード�していた場合と�浮気�の場合とではまずその合計がまるで違う。前者の平均が三〇〇〇万個くらいであるのに対し、後者は五二〇〇万個くらいである。浮気のときにはやはり、随分と多くの精子が放出されているのである。ラットは状況に応じ、精子の数を調節する能力を持っているらしい。しかし話はそればかりではなかった。 �ガード�していた場合、子宮頸部と膣には合計で九四〇万個くらい、交尾栓には一二〇〇万個くらいの精子が存在する。�浮気�のときにもそれぞれ七六〇万個と一一〇〇万個で、両ケースでそれほど大きく違うわけではない。ところが子宮にまで到達している精子の数を調べてみると、歴然とした差が現れる。ガードしていた場合が八〇〇万個くらいであるのに対し、浮気のときには何と三三〇〇万個だ。つまり、こういうことになるのだろう。  浮気の場合には放出される精子の数が多いだけでなく、泳ぐ速度など、質もよいのである。質のよい精子がいち早く子宮にまで到達している。そしてこれらの数値からわかるのは、それは精子の数が増えるのにひきずられ、質のよい精子も増えた、という単純な話ではないことだ。質のよい精子の割合が増えているのである。それにしてもどうしてそのような調節ができるのだろうか。  人間の男の浮気についてどうかということは、依然として謎《なぞ》のままである。しかしそれは大筋のところはラットと同じことだろう。精子数が多いうえに質もよい。そして浮気と同様に考えられるのは、妻をよくガードしていなかった後の�交尾�である。ベイカー&ベリスは件《くだん》の実験でその場合の精子数が多いというところまでは突き止めているが、質までは調べていない。しかしおそらく精子の質は、驚くほど高いレヴェルにあるのではないだろうか。  ともあれラットの研究でわかったのは、浮気に代表されるように、他のオス(男)の精子との競争が激しいと思われる状況ではオス(男)は大量の、しかも質のよい精子を放出するということである。量だけでなく、質。ただこの実験では精子の回収が、欲を言えばやや不完全だった。ネズミは体内受精の動物であるため、ベラのように精子をさっと袋に回収するというわけにはいかないのだ。  そこで登場するのは鳥である。鳥の九割方は一夫一妻の婚姻形態をとっており、オスとメスとが協力して子育てをする様《さま》は夫婦の鑑《かがみ》のようである。ところがその実態は見かけの平和とは遠くかけ離れている。鳥の世界は同時に、浮気、不義密通、違う種のみならず同じ種どうしでの托卵《たくらん》、ヒナの大部分を自分の子と確信できないオスが子育てを放棄する、そうでなくとも手抜きをする、離婚……そういった�男女�の確執が絡《から》む実にややこしい世界なのである。  とはいっても鳥もまた体内受精の動物である。鳥には普通ペニスがなく、交尾はオスとメスとが総|排泄口《はいせつこう》をくっつけることで行なわれる。コンドームを渡して協力してもらうというわけにもいかないのだ。いったいどうやって精子を回収するのか。  ところが都合のよいことに、オスは生きた個体でなくても交尾しようとする性質を持っている。凍結乾燥《フリーズドライ》したメスにでも喜んで交尾してしまうのである。そこでこの�メス�の生殖器、つまり総排泄口を細工して人工の総排泄口をつけ、精子を回収しようという寸法になる。  イギリスはシェフィールド大学のT・R・バークヘッドらはキンカチョウという鳥に注目した。キンカチョウはオーストラリア原産の小鳥である。ペットとしても実験動物としても人気が高い。英名のゼブラフィンチは、オスの胸元に黒と白の縞《しま》模様があることに由来するものである。婚姻形態は一夫一妻で、野外ではコロニー(といってもそれほど密集したものではない)を作って暮らしている。  バークヘッドらはまず、オーストラリア南東部、ヴィクトリア州のイバラの茂る乾燥地帯でこの鳥のコロニーを観察した。個体数はおよそ二〇〜四〇つがいである。そこでは一年のうちの何と六〜八カ月もの間繁殖シーズンが続き、ペアはそれぞれ思い思いの時期に巣作りと繁殖にいそしんでいる。  最初の卵が産まれる四〜五日前の頃、巣作りの作業はピークを迎える。但《ただ》し巣材を集めてくるのはオスだけで、しかも彼は巣から一〇メートルかそこらのごく近所にしか出かけないのである。出かけて行ってもすぐ戻ってくる。その間メスは巣の中に留まっている。たまにメスが出かけると、オスは必ず彼女の後をピタリと付けていく。メスの姿が見えないとなるともうパニックで、矢継ぎ早にアラーム・コールを発して彼女を呼び戻す。こうしてオスは、メスの行動をしつこいほどに監視し続けるのである。  巣作りと並行して交尾も行なわれる。それは巣の中ではなく、巣から何メートルか離れた枝の上か茂みの中である。オスは独特の歌とダンスでメスを誘う。ちなみにこの行動を最初に研究したのはあのデズモンド・モリスである。オックスフォード大学の大学院生だったモリスは、トゲウオの研究で学位(博士号)を取った後、キンカチョウの研究に取り掛かった。モリスが人間の男女の関係に「絆《きずな》」という観点を強調するのは、彼自身も述べているようにこうした鳥の配偶行動を長年観察した結果であるらしい。  オスの誘いに対し、メスは軽やかにピョンピョンと両足跳びし、はにかむように逃げ回る。追いかけるオス。そうこうするうち急におとなしくなったメスが尾を震わせたなら、それがOKの合図である。オスはピョンピョンとこれまた軽快に近づき、彼女にマウントする。マウントはわずか二秒ほどで終わってしまう。しかしこのとき彼女は、他の状況では決して聞かれることのない、小さくつぶやくような声を発する。これが他のオスたちの注意を呼び起こす。彼らはメスの声に答えるように次々、音声を返していく。それだけなら害はない。だが、マウント中のオスはしばしば他のオスに押しのけられて邪魔をされ、妻を寝取られてしまうことさえあるのだ。交尾頻度のピークは、メスが最初の卵を産む前日か前々日の頃にあるという。ペアは一回の繁殖で少なくとも一五回の交尾を重ねる。  メスが産む卵の数は平均で五個である。毎日一個、五日間かけて産む。しかしひとたびメスが卵を産み始めるや、交尾の方はパタリと取りやめとなる。ただオスは、メスをしつこくガードすることだけはやめようとしない。  卵を産めば次はもちろん抱卵ということになるが、この抱卵という作業が曲者《くせもの》である。メスは巣に束縛されてしまうのだ。彼女が抱卵している間、それはオスにとっての極楽タイムと化す。オスはメスが身動きできないのをいいことに、あちらのメス、こちらのメスと旺盛《おうせい》な浮気活動を開始するのである。  浮気という現象は動物行動学の分野では、extra-pair copulation(copulation は交尾)、略してEPCと呼ばれている。パートナーとの交尾は in-pair copulation、IPCである。  EPC、つまり浮気をする場合、キンカチョウのオスは特別念の入った歌とダンスでメスを誘う。パートナーとの交尾では二〇秒間くらいしか続けないというのに、|EPC《ウワキ》のときにはしばしば二分近くも熱演するのである。とはいえ|EPC《ウワキ》を成功させることはなかなか困難である。メスがせっかくその気になりかけていても亭主は駆けつけるわ、他のオスもやって来るわ……。時には全く関係のないメスが分け入り、他人《ひと》の恋路を邪魔するのである。もちろん当のメスが嫌がって逃げ出してしまえば、それでおしまい。だからオスはしばしば力ずくで|EPC《ウワキ》を実行しようとすることがある。レイプだ。  歌とダンスの後、メスがOKのサインを出していないのに跳び乗り、交尾。しかし多くの場合にはメスに逃げられてしまう。  彼女と亭主の交尾の最中に間に分け入り、亭主を押しのけて交尾するということもある。これは案外成功に至ることもあるが、当然のことながら亭主から体当たりも含めた猛烈な反撃をくらうことになる。  |EPC《ウワキ》の現場を押えた亭主は激しい怒りにうち震える。彼はメスの頭の後ろの羽をつかみ、彼女を懲《こ》らしめるが如《ごと》く暴力的に交尾する。続けざまに二回交尾することもある。それほど激しい性行動は他のいかなる状況でもありえないのである。  バークヘッドらが野外で観察したところによると、八四回の|EPC《ウワキ》の試みのうち成功したのは二回だけである。いずれも歌とダンスでメスを誘い、なおかつメスの同意が得られたときだった。一方、飼育下のもっと密集した条件では|EPC《ウワキ》の試み四四回のうち三三回がレイプであり、うち四回が成功した。歌とダンスで優しく誘ったものは一一回、うち五回が成功にこぎつけた。やはり力ずくでない方が成功率が高いようである。  メスが|EPC《ウワキ》事件に巻き込まれ、また自らもその気を起こすのは、最初の卵を産む日か次の日である。オスもその時期のメスを狙《ねら》っている。というのもこの鳥は、本来そう何回も交尾する必要がなく、実は一回の射精ですべての卵を受精させる能力を持っているのである。しかも精液がいったんメスの受精|嚢《のう》に貯えられてから受精が進むという都合上、受精は遅い者に有利、つまりは産卵が始まる頃の最後の射精が、誰が卵の父親たるかの大方の行方を左右するのだ。オスは|EPC《ウワキ》によって他人の奥さんの卵を、できればほとんど自分の精子で受精させようと企《たくら》んでいる。亭主もそれを阻止すべく妻をガードし、そのうえに何回も念入りに交尾する。交尾は一回で十分だが、そうして保険をかけるのである。そんなわけでメスが最初の卵を産む前日か前々日の頃、ペアどうしの交尾も俄然《がぜん》頻繁に行なわれることになる。  片やオスが|EPC《ウワキ》を実行するのは、パートナーが産卵と抱卵を始めて少したってからである。産卵が始まるや彼女とは、ほとんど交尾しなくなる。つまり|EPC《ウワキ》の前の数日間、オスは敢《あ》えて繁殖活動を休止するか、ほとんど開店休業状態にするのである。極めて怪しい。このしばしの休憩にどんな意味が隠されているのだろう。  結論から言ってしまうとすれば、それはこういうことである。キンカチョウには精子の数を調節する能力がない、射精ごとにそのときある精子の大半を出し切ってしまう、しばしの休憩は|EPC《ウワキ》に備え、|EPC《ウワキ》用の精子の数を増やすため、それを溜《た》め込んでいく時間だということである。彼らはどういう心理作用によるのか、しばし禁欲する。彼らはその事情を知っているようでもある。  とすれば精子はどのくらいのペースで溜《たま》っていくのだろう。バークヘッドらは、本物のキンカチョウのメスを凍結乾燥《フリーズドライ》させ、精子回収用の人工の生殖器を付けた、モデルメスなるものを作った。このモデルメスを使い、オスに続けざまに三回ほど射精させてまず彼の精子を完全に枯渇《こかつ》させる。その後しばらく�禁欲�してもらう。再びモデルメスと交尾させ、精子を回収し、�禁欲�時間の長さの違いによる精子の溜り具合というものを調べるのである。�禁欲�時間を三〇時間、三一〜六〇時間、六一〜九〇時間、九一〜一二〇時間、一二一〜一五〇時間と変化させると放出される精子もほぼ時間に比例して増えていく。三〇時間の�禁欲�で一〇〇万個くらいだったのが、六一〜九〇時間では六〇〇万個、一二一〜一五〇時間では一一〇〇万個にも達するのである。この実験によれば、精子は一日にだいたい一八〇万個ずつ溜っていく勘定である。  数日間禁欲したオスは相当な数の精子を溜め込んでいる。それは|IPC《ペア交尾》のときにはまずありえないような量である。バークヘッドらによると、|EPC《ウワキ》のときには|IPC《ペア交尾》のときの七倍以上もの精子が放出されるという。しかしそれら精子の質はどうなのだろう。  生殖器の中でも、貯蔵される場所により精子の質に違いがあるのではないか、と彼らは考えた。彼らはキンカチョウのオスの貯精嚢を奥の方から順に基部、中間部、開口部の三つの領域に分け、それぞれの領域から精子を採取したのである。精子の泳ぐ速度、動きの活発さ、正常な精子の割合について調べてみる。するとどの要素をとってみても開口部のものが最も質がよい。中間部、基部と行くに従い、質が落ちるのである。たとえば精子の泳ぐ速度は開口部のものが一秒間に約三三ミクロンであるのに対し、中間部で約一七ミクロン、基部では約一四ミクロンだったのだ。  さてそこで、いよいよ七日間禁欲させた浮気態勢のオスをモデルメスと交尾させる。精子の平均速度は何と三三ミクロンだった。開口部の、最も質のよい精子の速度と同じではないか。一時間ほどおいてもう一度交尾させると今度は一九ミクロンにまで落ちる。これは中間部のものにほぼ同じだ。つまりこの鳥では浮気のときにただ精子の数が増え、質が向上するだけではないのである。浮気の一回目には選りすぐられた�精鋭部隊�が出動する。その泳ぐ速度は普通の部隊の二倍近くなのだ。  キンカチョウのオスは浮気に備えて禁欲する。禁が解かれたとき、オスのみならず精子も大いに張り切っているのである。  その後ベイカーは、懸案だった人間の男の、|EPC《ウワキ》のときの精子というものを入手することに成功した。パートナーとの性交《セツクス》と性交《セツクス》の間に他の女と性交《セツクス》した場合を|EPC《ウワキ》とみなし、コンドームに精子を回収してもらうのである(もちろんパートナーとの性交《セツクス》のサンプルについても回収)。  結果はやはり|EPC《ウワキ》のときには精子は精鋭部隊になる、というものだ。但《ただ》しそれはキンカチョウの場合とは違い、少数《ヽヽ》精鋭部隊だということである。男は|EPC《ウワキ》の前日くらいになると、往々にして無意識のうちにマスターベーションを行なってしまう。そのため精子の数は少なめになる。ところがそれは、他ならぬマスターベーションをすることによって編成された大変な精鋭部隊なのである(マスターベーションの効能については次のセクションで詳しく説明する)。 [#改ページ]  マスターベーションとは何なのか 罪悪か功徳か[#「罪悪か功徳か」はゴシック体]  日本語で「自慰」と訳されるように、マスターベーションという言葉には暗く寂しく、どこか後ろめたいイメージがつきまとっている。  一人寂しい作業、行為は報われない、性のはけ口を求めた虚《むな》しい行ない……。マスターベーションが性交《セツクス》の代償行為だと言われても、まず反論する者はいないだろう。何しろ欲求が起きるのだから、男の場合には溜《たま》ってくるのであるから。  パートナーがいる男のマスターベーションは、彼女という存在がありながらの行為であるし、まさに背徳。まして女のマスターベーションなど言語道断である。第一、女はオルガスムスを感じたとしても�射精�はしないのだ。彼女が淫乱《いんらん》の烙印《らくいん》を押されたとしても、それは仕方のないことではあるまいか……。  しかしそもそも人間以外の動物──この場合は哺乳類《ほにゆうるい》に限られるが──に目を向けるなら、マスターベーションなどというものは、実にどうということのない行為なのである。それはオスについても、メスについても同様だ。  オスのマスターベーションの基本は、ペニスを地面や木の枝にこすりつけることである。あわせて口や後足なども使う。しかし霊長類ともなると、さすがに手(前足)を使うことが多くなる。動物園のサル山やチンパンジーの檻《おり》の前にしばらく佇《たたず》んでみるといい。オスの黙々とした行為が、あるいは観察されるかもしれない。  興味深いのはそれぞれの動物が、各人の発達させている部分をマスターベーションにも使うということである。オマキザルはやはり、あの長く器用な尾を使い、ゾウもゾウで鼻を使う。さらにイルカは水槽で飼っていると底にペニスを押しつけ、勢いよく噴き出している水にはそれを当てがい、恍惚《こうこつ》の表情を浮かべることさえあるという。イルカはひときわ脳を発達させている動物だが、さすがに使うべき所にその能力を発揮しているようだ。  しかしあっと驚かされるのはアカシカだ。アカシカのオスが草むらで頭を下げ、草を払うようにして角を動かしている。そうこうするうちペニスが勃起《ぼつき》し、ついには射精してしまうのである。角をペニスに当てがうのではない。角をこすっているうちに射精するのである。アカシカの角は性感帯となっており、こうした間接的な刺激でも射精に至ってしまうわけなのだ。彼らは闘いのためにも角を使うが、角をつき合わせているオスが急にヘナヘナと萎《しお》れてしまうかといえば、どうもそういうことにはならないようにできている。  メスたちも負けてはいない。哺乳類のメスもやはり地面や木の枝に外陰部をこすりつけ、あるいはクリトリスをなめたり、いじったりして刺激する。霊長類は手を使う。乳首をなめたり吸ったりして興奮することもある。さらにチンパンジーのメスともなると、さすがというべきか道具を使う。草の茎をヴァギナへ挿入、右へ左へと揺り動かしてクリトリスを刺激する。あるいはこういうこともある。  ある研究者(男)が飼育されているメスのチンパンジーのそばに座り、人間の女に対するのと同様に彼女を刺激した。彼女は彼の腕を掴《つか》み、もっとマッサージを続けるようにと促したのだという。  オスにしてもメスにしても、これらは皆、代償行為だろうか。相手に恵まれない場合のやむをえない性欲の処理方法だろうか。今から五〇年以上も前のことだが、アカゲザルの集団を観察していたC・R・カーペンターは面白い現象を発見した。アカゲザルはニホンザルと同じで、総勢で数十頭に及ぶ、オス、メス、子どもたちから成る社会をつくっている。オスにははっきりとした順位があり、基本的に順位の高いオスほどメスに対する交尾の優先権を持っている。その、順位が高く、好きなときにメスと交尾できるはずのオスが、なぜか頻繁にマスターベーションをするのである。件《くだん》のアカシカにしたところでハレムを構え、メスには不自由していないオスが、やはりまた盛んに角こすりをやって射精する。いずれもメスにあぶれたオスの代償行為ではないことは確かだ。こうしてマスターベーションとは(特に男の)、単なる代償行為とは言えないのではないか、何か積極的な意味があるに違いないという考えが研究者の間に広まることとなったのである。その意味とは何だろうか。  R・L・スミスという昆虫学者は、それは精子の�貯蔵寿命�と関係があるのではないかと指摘した。男は、性交《セツクス》もマスターベーションもせずに何日も過ごしていると、ついには眠っている間などに自然に�漏らして�しまうからである。それは期限切れの古い精子を捨て、新しい精子に置き換える生理現象だ。マスターベーションとはそれを自発的に行なうことではないのか。それにマスターベーションによって何らかのフィードバックのメカニズムが働き、精子や精液の産生が促されるのかもしれない。つまりマスターベーションとは、性的活動を高めるための行為なのだ。しかしそれ以上のこととなると、残念ながら誰も明快な解釈を与えることはできなかったのである。  そこでR・ベイカーとM・ベリスの登場となる。彼らはマンチェスター大学の関係者をボランティアとして可能な限りの研究を押し進めているが、当然のことながらマスターベーションについても多大な関心を払っている。イギリスの女性誌『カンパニー』では大々的なアンケートを行ない、女のマスターベーションとオルガスムスの実態に迫った。その彼らの研究の示すところによれば、マスターベーションとは|むろん《ヽヽヽ》代償行為などではない。背徳の行為でもない。虚しくもなく、淫乱でもない。それは未来のための、極めて理にかなった行為ということになるのである。  ベイカー&ベリスは既に紹介した通り、射精液をコンドームに回収するという実験を行なっている。性交《セツクス》の場合、含まれる精子の数はそのたびごとに驚くほど変化する。精子数を決めている最も重要な条件は、前の性交《セツクス》からの経過時間(間にマスターベーションが入る場合には、前の性交《セツクス》からの時間とマスターベーションからの時間の両方が関係する)、その間パートナーとどれくらいよく一緒に過ごしたか(共有時間の割合)、パートナーの体重、の三つであった。 「前の性交《セツクス》からの時間」は単純に、時間とともに精子が溜ってくるという問題である。「パートナーとの共有時間の割合」は(これが最も肝心な点なのだが)、パートナーをよくガードしていたかどうかによって精子の数を変える、つまりガードしていなかった場合ほどパートナーが浮気をしている可能性が高いわけだから、ライバルに打ち勝つため彼女により多くの精子を送り込む必要がある、という|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》の問題である。「パートナーの体重」は彼女の繁殖力を示し、繁殖力がある(体重がある)ほど精子も多く放出すべきだということである。  マスターベーションの場合は性交《セツクス》とは全く違う。精子数はパートナーとの共有時間の割合、パートナーの体重、のいずれとも関係しなかった。たとえパートナーがそばにいて、彼女の介添えのもとマスターベーションを行なったとしても影響が出ないのである。マスターベーションの精子数に影響するのは、ただ単に前回射精からの経過時間だけである。  しかしそれにしても、なぜに男はマスターベーションをするのであろうか。ベイカー&ベリスの研究に登場するのはパートナーのいる男であり、彼らは女にあぶれているわけではない。性的欲求が生じた際には迷わずパートナーを誘えば事足りるのである(といって断わられることもあるだろうが)。なぜマスターベーションに走るのか。いや、せっかくの精子を無駄にしないためにはマスターベーションではなく性交《セツクス》をし、ぜひとも彼女に精子を送り込んでおくべきではないのか。なぜマスターベーションなどという無意味《ヽヽヽ》なことをするのだろう。  そこでベイカー&ベリスが注目したのは、精子がいかに女の体に受け入れられ、拒絶されずに留まるかという問題である。  なるほどそれは道理だ。いかに多くの精子が投入されたとしても、拒絶される方も多いのではあまり意味がない。逆に放出される精子が少なくても、受け入れられる割合が大きければ、それはそれなりに意味のあることだろう。女の体に受け入れられるかどうか、拒絶されるかどうかはおそらく精子の生きのよさのようなものが関係してくるだろう。  精子がいかに受け入れられるかは、残念ながら直接測定することができない。人間は件《くだん》のラットのように殺して解剖し、子宮や膣《ちつ》を溶液に入れて精子を溶かし出す、などということをするわけにはいかないのだ(ラットだからいいというものでもないはずだが)。そこでやむなく、女の体から拒絶される方の精子数を数えようということになる。放出された精子数から拒絶分を引けば、受け入れ分の精子数が導かれるだろう。  性交《セツクス》してしばらくすると女の体からは精液と女の体液とが混ざりあった、白い球状の固まりがいくつも排泄《はいせつ》されてくる。これはフロウバックと呼ばれるもので、精子はこうして拒絶される。フロウバックは排尿の際やくしゃみをして力んだ拍子などにも出てくる。一つの固まりは一〜三ミリリットルくらい、固まりは全部で三〜八個くらいで、総体積は精液(三ミリリットル)をはるかに上回っている。ベイカー&ベリスはボランティアに対し、このフロウバックをビーカーに集めるよう要請した。だがなにぶん、精液に比べて抵抗感があるのか、回収の手続きが面倒であるためか、協力が得られたのは全体の三分の一にも満たない一一組のカップルである。サンプルは全部で一二七個だった。  コンドームに回収された精子と同様、フロウバック中の精子の数も厳密にカウントされる。ところがここに困った問題が発生してしまった。フロウバックの中の精子の数がわかるのはよい。しかしそのとき精子が実際にどれくらい放出されたかは、どう逆立ちしてもわからず仕舞いなのだ。もし放出された精子をコンドームに回収するとすれば、文字通り放出された精子の数はわかるが、フロウバックは得られない。一方、フロウバックを調べる場合にはコンドームは使わない。受け入れられなかった精子数はわかるものの放出された精子の数がわからない……。ジレンマなのである。  しかしなんとか問題は解決された。放出された精子の数をこれまでの研究データから推定するのである。精子数を決める三大要因は、前回の性交《セツクス》、あるいはマスターベーションからの時間、パートナーとの共有時間の割合、パートナーの体重である。これらを変数とした、放出された精子数を割り出すための計算式を作り、それぞれの変数の実際の値を代入するというわけだ。こうして個々の状況の射精精子数を、大雑把ではあるが把握することに成功した。射精精子数と拒絶精子数とを得る。その差を計算して精子がいかに女に受け入れられているかを検討するのである。そうしてわかったのは意外な事実である。マスターベーションの素晴らしい効用だ。  マスターベーションをして二四時間もたたないうちに性交《セツクス》したとする。すると確かに放出される精子の数は多くはない。ところが女の体に受け入れられる精子の割合《ヽヽ》が大変大きく、その数は二日くらいの間をおいて性交《セツクス》した場合とほとんど変わらないのである。  マスターベーションの二日後くらいの性交《セツクス》はどうかというと、これがまた大変にいい。女の体に受け入れられる精子の数は四〜五日�禁欲�し、存分に溜め込んだ場合と大差ないのである。だから、たとえば四〜五日�禁欲�し、性交《セツクス》したとする。それは性交《セツクス》の二〜三日後くらいにまずマスターベーションをする、さらに二日後くらいに性交《セツクス》するという場合と内容的には同じだということになるのである。何とも皮肉な結果ではないか。  マスターベーションをすると性交《セツクス》の際の放出精子数は確かに減る。しかしそれを補って余りあるほどに受け入れ精子数が増す。平均的な性交《セツクス》では受け入れ精子数が六五パーセントであるのに対し、拒絶精子数は三五パーセントというのが、およその割合である。マスターベーションはこの比を受け入れ側に傾ける効果を持っている。マスターベーションとは結局、古い精子を追い出し、発射最前列を新しくて生きのいい精子に置き換える──そういう作業であるらしい。男はその意味を薄々�知って�いるようでもある。ベイカー&ベリスによれば、前の性交《セツクス》から五〜六日たっているとその間におよそ半数の男がマスターベーションをする。一一日以上空くとほぼ全員がする。しかもマスターベーションをしたなら、その二日以内におよそ半数が、三日以内には大半の男が性交《セツクス》をも実行しているのである。マスターベーションの意義というものを男は完璧《かんぺき》に「理解」している。罪の意識を感ずる必要など、実のところを言えば全くないのである。  しかしそうすると、この罪の意識ということだが、これが大いに問題になってくるという気がしないでもない。人はなぜ感ずる必要もない罪の意識を感じたり、よけいな苦しみを味わったりするのだろうか。なぜ自分にとって不利となるような心理をわざわざ持ち合わせているのだろう。おかしいではないか。やはりマスターベーションは罪悪なのであり、我々は社会的、宗教的制裁を受けなければならない……?  ただ一つ言えるのは、進化の世界では全く意味のないことは存在しない、本人にとって真に都合の悪い心理などというものはまず備わってこないということである。都合の悪いように見えて実はそうではない。それが進化の世界のからくりである。マスターベーションを罪と考える心理は……、いや、おそらく罪と考えつつそれを行なうということ、それこそがミソなのである(この件については最終章で明らかにするつもりである)。  ともあれ、そうとなれば今度は女の番である。女のマスターベーションとはいったい何なのだろう。女がマスターベーションをしたところで何か古いものが新しいものに置き換わるわけではなく、特に目立った効果があるようには思われないのだが……。しかしその前に、まず女のオルガスムスとは何なのかと考えてみよう。男のオルガスムスが射精と切っても切れない関係にあるとして、女にオルガスムスが起きるとどうなるか。体はどんなふうに変化するのだろうか。  ベイカー&ベリスが雑誌『カンパニー』で調査してわかったのは、オルガスムスの経験があるという女の割合は性交回数とともに増えていくということだ。性交五〇回の時点で九二パーセントであるのが、性交五〇〇回で九八パーセント、とほとんどの女がオルガスムスを知るに到《いた》るのである。しかし興味深いのは、これらの女が実際の性交《セツクス》によって初めてオルガスムスを知るのかというと、むしろそうではないということだ。性交五〇回では五三パーセント、五〇〇回でも八四パーセントの女しか性交《セツクス》によるオルガスムスを知らない。十分に性経験を積み、オルガスムス自体も経験しているが、性交《セツクス》によるオルガスムスだけはまだ知らないという女が世の中には随分いるものなのである。そして性交《セツクス》によるオルガスムスを知る女にしたところで、性交《セツクス》のたびにいつも必ず達しているわけではない。つまりこうしてみると性交《セツクス》のときのオルガスムスと性交《セツクス》以外のオルガスムスとはどうも別物で、両者はまずは切り離して考えた方がよさそうだという雰囲気が漂ってくるのである。  性交《セツクス》以外でのオルガスムスとして興味深いのは、ヴァージンの女の子ですら結構オルガスムスを経験しているということだ。セルフ・マスターベーション、ボーイフレンドの介添えによるものと方法は様々だろうが(それに眠っているときなどに自然にオルガスムスが起きてしまうことがある)、ベイカー&ベリスの調査によると何と女の八一パーセントが既にヴァージン時代にオルガスムスを経験している。大多数の女は、まだ性交《セツクス》を知らないうちに性交《セツクス》以外の状況で初めてオルガスムスを体験するというわけである。それは性の入り口にさしかかった女が、本格的な性生活を前にぜひ知っておくべきステップとして経験するのだろうか。それとも単なる性的好奇心の暴走なのか……。  オルガスムスによって女はどう影響されるだろう。体はどう変化するのか。  オルガスムスとは子宮と膣とが何回も痙攣《けいれん》し、収縮を繰り返すことである。この動きはもし既に膣内に精液が存在していたり、最中や直後に精液が入ってきたなら、それを強力に吸引する効果を持っている。性交《セツクス》の途中の、いや、男の射精と密接に関連した場合のオルガスムスには、精液をより多く取り込もうとする働きがあるのである。女が男をいかに受け入れようとしているかはオルガスムスとして表現され、事実それは精子をよく受け入れる結果となっている。この場合、話は非常にわかりやすいのである。  ところがオルガスムスの大半は、実はそういうタイミングで起きてはいない。性交《セツクス》の途中、女は男よりも大分早くに達してしまうことがしばしばである。前戯のときに達することもある。むろんマスターベーションでも到達する。オルガスムスと精液とは多くの場合、関係を持たないのである。オルガスムスが起きて女の体に起きる本当の変化とは、実を言えば精液を吸引することよりも、膣内に酸性の粘液が大量に分泌され、膣の酸性がいっそう高まるということなのである。  膣というものはふだんから酸性に保たれている。それはバクテリアなどの微生物を殺したり増殖を妨げるためである。オルガスムスとはつまり、膣内部の酸性がさらに高まり、滅菌の効果が増すという現象なのだ。性交《セツクス》時はともかくとして性交《セツクス》以外のオルガスムスには、実はこうして滅菌という大目的が課せられているのである。ヴァージンの女の子の大部分が既にオルガスムスを経験していること、経験を積んでいる女でも性交《セツクス》時のオルガスムスを知らなかったりするのは、オルガスムスの目的の第一がまさにこの点にあるからだろう。直接には性と関わらないところにあるからなのである。  そうとなれば女はなぜマスターベーションをするのか。もはや言うまでもないことかもしれない。それは生殖器を感染症から守るためだ。極めて意義深い、かつ神聖な行為とすら言えるのである。 [#改ページ] 第二章 精子の争いここにあり[#「精子の争いここにあり」はゴシック体]  毒ヘビはなぜ�淫乱《いんらん》�なのか メスたちの企《たくら》み[#「メスたちの企《たくら》み」はゴシック体]  淫乱と思われるほどにメスがオスと交わる動物といえば、まず思い浮かぶのがチンパンジーである。チンパンジーのメスはおよそ三五日をサイクルとする月経周期を持っているが、うち一〇日間ほどが発情期間で、オスを受け入れられるのはこの時期だけである。お尻の性皮は段々と赤味を増し、膨らんでいく。最も膨らんだときには、つついたら今にもプチンとはじけそうである。こうして彼女は今まさに発情していることをオスたちに知らせる。  メスが発情すると、オスたちは代わる代わるに彼女のもとを訪れる。順位の高いオスは確かにメスをガードし、独り占めしようとする。ところがメスの方はといえば、どのオスに対しても実に寛大な態度なのだ。来る者は拒まず、相手の順位にも、相手が誰であるのかにもあまり関心がないかのような様子である。チンパンジー研究の第一人者であるジェーン・グドールが長年観察している、タンザニア、ゴンベ国立公園のチンパンジーの集団ではこんな例さえ目撃されている。  グドールが特に思い入れを持ったチンパンジーに、フローと名付けられたメスがいる。フローは何か特別な色香でも持っているのかオスたちにはモテモテで、かなりの老齢になってもなお人気は衰えなかった。彼女が発情すると集団中のオスが駆けつける。そんな彼女が打ち立てた交尾回数の最高記録は、何と一日に五〇回というものである。ほとんど休む暇もない。とはいえチンパンジーの交尾はわずか七〜八秒で終わってしまい、彼女の�労働�は我々が思うほどに大変なものではなかったかもしれないが。けれどもその当時集団内にいたオスは一二〜一四頭で、うち二頭は彼女の息子だから相手は一〇〜一二頭ということになるだろう。単純に考えても同じ相手と四回くらいは交尾した勘定になる。やはり、かなりやり過ぎという感じである。フローは特別モテるメスで、普通はこんなにも多くはない。チンパンジーの発情したメスが一日にこなす交尾回数は二〇〜三〇回といったところである。  それにしてもチンパンジーのメスの交尾回数は桁《けた》違いだ。どうも不必要に多いという気がしないでもない。なぜ彼女たちはそんなにも多くの交尾をこなすのだろうか。だいたいメスというのは、「あれもいや、これもいや」ととかく気難しくて我儘《わがまま》なものと相場が決まっているのである。コーラスをするカエルやコオロギ、美しい尾羽を広げたり、歌やダンスでオスがメスに求愛する鳥たちを見るがいい。努力の甲斐《かい》もなく、たいていのオスはあっさりと振られ、メスとの交尾権を得るのはほんの一部のオスだけだ。それに引き換えチンパンジーのメスと言ったら……。  その理由として一つ考えられるのは、彼らが集団で暮らしているということだろう。その集団どうしが戦争と言っていいくらいに激しい争いを演ずるのだ。ケガ人や死者が出ることも珍しくなく、ゴンベ国立公園のある集団など、メスも含めて全員、隣の集団のメンバーに殺されてしまったくらいである。  こういう状況に対し、メスとしてはどういう対策を講ずるべきだろうか。それは日頃からオスどうしの仲を友好的にし、彼らを団結させ、いわば軍事力のようなものを高めておくことではないだろうか。そして彼らを仲良くさせるにはまずメスが、このオスはいいけどこのオスはダメ、などと厳しく選り好みしないことだ。�男�は�女�をめぐるライヴァルとなんか、死んでも団結したくないからである。但《ただ》し、同じ�女�を共有しているのならそれはできない相談ではないだろう。�女�はみんなの共有財産である。同盟を結んでやっても、まあいいだろうということになる。チンパンジーのメスはオスたちの団結力を強め、集団の軍事力を高めるために寛大な振る舞い方をする、というのがまず一つの解釈である。  もう一つ考えられるのは、子殺しという問題である。チンパンジーのオスは時として自分の子ではないと思われる赤ん坊を殺し、その肉を食べてしまうことがある。極悪非道の行為のように思われるが、それというのもメスは赤ん坊に授乳している限りは排卵が起こらず、発情もしない。授乳期間は何と四年間にも及ぶ。ところが赤ん坊がいなくなり、乳を吸う者がいなくなるとすぐに発情周期が再開する、という事情があるからである。オスの子殺しにはメスの発情を再開させ、次は何とか自分の子を産ませようとする狙《ねら》いが隠されているのである。  典型的なケースは、メスが赤ん坊を、それもオスの赤ん坊を連れてよその集団から移ってきたときである。その子は明らかに集団内のどのオスの子でもないし、メスならともかく、オスは将来のライヴァルとなってしまうだろう。その意味でも早く芽を摘んでおかねばならない。そこで殺す。  集団内の赤ん坊が殺されることもある。たとえば順位の低いオスは、これぞと思う発情したメスを口説き落とし、二人だけでしばし恋の逃避行に出かけることがある。しかしチンパンジーのオスたるもの、メスを独り占めにするなどもっての外である。集団に戻ると彼は他のオスたちから何かと制裁を受けることになる。それだけならまだしもだが、問題は七〜八カ月の後である。チンパンジーの妊娠期間はだいたいそれくらいで、もしその頃にそのメスに子が生まれたなら、父親はかの掟《おきて》破りのオスであるに違いないのだ。彼らは交尾と出産との因果関係、妊娠期間などについて薄々わかっているらしく、こうした赤ん坊が子殺しの犠牲になることも少なくないのである。その他、よくわからない理由で赤ん坊が殺されることもある。赤ん坊が自分の子ではないという確信を、もしかしたらその下手人は掴《つか》んでいるのかもしれないが。  こういった、自分の子ではないとわかっている子を殺すという悲劇を回避するために、チンパンジーのメスとしてはどう振る舞うべきだろうか。力で抵抗することはできないのはもちろんである。メスが連合したとしても、やはり無理だろう。つまりこの場合にまたしても有効なのが、できるだけ多くのオスと何回も交わるという作戦なのだ。生まれてきた子は誰の子かわからない。どのオスにも心当たりがある。どのオスも同じように「オレこそがこの子の父親なんだ」と思い込んでいるのなら、子殺しは自然に回避されていくだろう。  集団防衛と子殺し──チンパンジーのメスが�淫乱�であることの、まず考えられる原因はこの二つということになるのである。どちらもメスにとって重大な問題で、�淫乱�というのは実によく考えられた解決法だ。メスたるもの、性はこんなふうに活用しなくてはならないのである。  もっとも一方で、どうも少し違うぞという気がしないでもない。この二つの問題は、メスが�淫乱�であることの十分な理由ではあるのだが、二次的な理由であっても一次的なものではないのではないか。そもそもオスどうしを仲良くさせたり、父親をわからなくするためだけなら日に何十回も、しかも一頭につき三回も四回も交わってやることはないのである。各人一日一回ずつくらいの交尾で十分ではないか。なぜそんなにも交わるのだろう。  そこで交尾という行為の基本に立ち戻ってみるとする。交尾をめぐる最大の問題点は何か。それは、交尾には常に|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》という問題が存在するということである。卵《らん》をめぐって複数のオス(男)の精子が争う。ひょっとしてメスは、何回も、しかも違うオスと交わることによって彼らに激しく|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》をさせているのではないだろうか。交尾の前にオスを厳しく選ぶというのがメスとしての一つの戦略だが、まずオスたちと交尾し、そのうえで彼らに|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》させるというのも手である。実際、チンパンジーのメスは一〇日間の発情期間のうち最終日に排卵し、その後お尻の性皮は急速にしぼんでしまうのである。チンパンジー社会ではオスが互いに|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》していることは確かだが、それ以上に|メスがオスを《ヽヽヽヽヽヽ》競争に駆り立てているのかもしれない──。  ところが残念なことに彼らの社会は複雑に事情が絡《から》みすぎている。オスには順位があるし、メンバーどうしは様々な駆け引き、行為とそれに対するお返しを繰り返しながら社会生活を営んでいる。集団防衛や子殺しの問題だってある。メスがオスを|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》に駆り立てている実態を確かめたくても、それはなかなか困難である。どうしたものか。何か適当な動物はいないのか……ということで代わりに登場するのがヨーロッパクサリヘビというヘビである。ヨーロッパではごく普通に見られる小型の毒ヘビだ。彼らの社会では「集団防衛」も「子殺し」もない。それでもメスは極めて�淫乱�なのである。  クサリヘビの名は背中に浮き出る特徴的なジグザグ模様に由来している。体長(といっても鼻先から肛門《こうもん》までの長さ)は最大で六〇センチメートルくらい、体重は同じく一五〇グラムくらいである。このヘビは普通のヘビとは違い卵胎生で、子は卵ではなく、子ヘビの状態で生まれてくる。既に自活する能力を持っており、そのためオスはもちろんのことメスさえもほとんど彼らの世話をすることがない。  スウェーデンはルンド大学のT・マトセンらは、このヘビの繁殖行動を研究した。場所はスカンジナビア半島最南端の、バルト海を臨む牧草地である。ここの集団は隣の集団まで二〇キロメートルも離れているという大変孤立したもので、一年に繁殖するオトナの個体もオス、メス合わせて三〇匹くらいしかいない。マトセンらは六年間かけて三〇匹余りのメスの行動を記録した。  個体は腹側のウロコに切れ目を入れてマーキングする。オスには背中に塗料を塗り、メスの場合はそのうえ毎年発信機を飲み込ませる。春の交尾シーズンは特に重要で、その三週間ほどのメスの行動はすべて記録、オスについてもメスと出会ったときを中心に記録された。  夏になり出産の時期が近づくと孕《はら》んだメスは捕えられる。出産までの一〜二週間を研究室で飼育する。子どもが生まれると彼らの一匹一匹は体重、体長などを測定され、マーキング。母親ともども元いた場所へ返されるのである。  春の交尾シーズンには、もちろんオスはメスをめぐって争う。ところがその争い方が凄絶《せいぜつ》なのだ。その三週間はほとんど飲まず食わずで、時に体重の二〇パーセントが失われるという。たいていは体の大きい方が小さい方を駆逐するのだが、メスはといえばオスの期待とは裏腹の極めて不可解な行動を示すのである。  メスは一回の繁殖期の間に、およそ二〇匹いるオスのうち平均七匹から求愛を受ける。それに対し、たいていは二回以上、多いもので八回、平均でも四回もの交尾をこなす。しかも同じオスを避け、なるべく違うオスと交尾しようとする傾向があるのである。必ずしも争いに勝ったオスを選ぶわけではない。それにまた、このヘビの交尾にはメスの協力というものが不可欠で──なぜなら腕のない彼らが�腕ずく�というわけにもいかず──この頻繁な交尾がレイプによるものでないことは明らかだ。  メスはなぜ何回も、それも違うオスと交尾しようとするのだろうか。交尾には結構なエネルギーが必要なはずである。子の数を増やそうとするならそういったエネルギーはなるべく節約し、卵や子の成長、出産のためにこそ利用すべきではないだろうか。実を言えばメスは交尾を済ませると、その後数カ月の間じっと一カ所に留まり、ほとんど何も食べようとしないのである。エネルギーは大変に貴重だ。そしてまた交尾の最中には危険が一杯である。無防備な彼らをカラスやカササギ、ノラネコなどが狙っている。そもそもメスが出産までの間、食べ物の欲求を抑えてまで一カ所に留まるのは、一にも二にも捕食者に見つからないようにするためなのである。エネルギーを費し、危険を冒してまで交尾を重ねることにどんな意味があるのだろう。  とはいうものの、多く交尾することで多くの子が得られる、というのであれば話は別である。体の大きいメスは多くの子を産み、それがために多くの精子を必要とする、だから何回も交尾する必要があるのだ、としても話は別である。しかし交尾回数と子の数、交尾回数とメスの体の大きさとの間には関係がないことがわかっている。そもそも一回の射精液は、すべての卵を受精させるに十分な精子を含んでいるのである。  メスは精液から養分を得ている、そのために何回も交尾する、という考えなどはどうだろうか。精液にはかなりの栄養が含まれており、それはあながちありえないことではない。しかしメスの交尾回数と子の数、子の体重との間には相関がなく、多く交尾したからといって多くの体格に恵まれた子が得られるわけではない。これまたメスが�淫乱�であることの理由たりえないのだ。  結局、マトセンらが考えるところによれば、メスは多くのオスと交わることにより、エネルギーの損失や身の危険を補って余りある、ある利益を得ているのだという。遺伝的な利益だ。  研究地の集団は隣の集団まで二〇キロメートルもあるという、大変孤立した集団である。最大の弊害は近親交配ということになるだろう。メスは何回も、なるべく違うオスと交わることでそのリスクを避けているのである。とはいえそれは、何回も交尾することで自分の近親者とだけ交尾することを避けようとしている、というわけではない。メスが避けようとしているのは近親者というより、近親交配の結果の精子なのである。  近親交配によってできた精子は生存力が弱い。そういう精子を持っていないオスを見分けたいが、どうしたらよいだろうか。そんなことは外見からはとてもわかるわけはない。そこで取り敢《あ》えずいろいろなオスと交わり精子を得る、それらに|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》させてみる。そうすれば生存力の弱い精子は淘汰《とうた》され、生存力の強い、近親交配の結果ではない精子が生き残ってくるだろう。そればかりではない。生存力の強い精子は受精卵や子自体の生存力を高めることになるかもしれない。実際この研究で唯一《ゆいいつ》相関ありと出たのは、交尾回数と死産の率との関係だった。メスは何回も交わることで子の死産の率を下げることに成功しているのである。  ヨーロッパクサリヘビのメスは何回も、しかも違ったオスと交わる。それによって近親交配の影響の出ていない、より生存力の強い精子を得る、ひいてはより生存力の強い子を得ようとしているのだというのがマトセンらの説明なのである。  この毒ヘビの研究は、近親交配の弊害を避けるという観点から議論がなされている。研究された集団がたまたま近親交配のリスクの大きい集団だったからだ。しかしそれは、より生存力に優れた精子を得るためにメスが何回も交尾する、オスに|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》をさせているのだ、という話と解釈しても差し支えないはずである。メスがオスを選ぶ際、まず見た目で選び、それから交尾するというのが基本である。しかしこのように、まず交尾し、そのうえで彼らに|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》をさせるという手もありうるわけである。ヨーロッパクサリヘビのメスは、メスとしてのそのとっておきの手を用いている。そしておそらくチンパンジーのメスも。 [#改ページ]  英国は昔も今も変わっちゃいない 女は魔物だ[#「女は魔物だ」はゴシック体]  一〇六六年、フランスの一諸侯であったノルマンディー公ギヨームはイギリスを征服、ウィリアム一世として即位した。これが現在の英王室の始まりである。以来四二人の王または女王が即位しているが、そのうち女王六人と成人に達する前に亡《な》くなった二人の少年王を除くと、大人の王様は全部で三四人である。英国王室研究家である森護氏の『英国王と愛人たち』(河出書房新社)によると、この三四人のうち二五人が王妃の他に愛人を持っていたという。  国王が愛人を持つことは、かつて我が国の天皇が側室を持ったのと同様、あまり驚くべきことではないかもしれない。しかし我が国と彼《か》の国とで少なくとも表向きの事情が違うのは、天皇の側室が皇后に世継ぎがない場合の補充役としての期待を担《にな》っていたのに対し、英国王の愛人は世嗣《よつ》ぎ云々《うんぬん》とは全く関係がないということである。イギリスでは王妃に男の子がなかった場合には、愛人の子が即位するのではなく、たいていは王の弟か、その他王位継承順に従った人物が即位した。女の子しかいない場合にたまさか女王が即位するのである。そんなわけで歴代の英国王は相手の家柄や身分に捉《とら》われることなく愛人を作り、自由な恋愛を楽しんでいた。  英国王の中でもとりわけ好色で、寛大な人柄から国民にも慕われたのが、|陽気な王様《メリー・モナーク》ことチャールズ二世(在位一六六〇〜八五)である。清教徒革命で父チャールズ一世が処刑された後、大陸に亡命、やがて王政復古を成し遂げて王位に就くが、その業績よりも好色ぶりの方が目立ってしまう。彼は認められているだけでも愛人一三人を持ち、庶子一四人を残した。関係を持った女の数となると、もはや誰にもわからぬほどである。王妃はもちろんいたのだが、子はなかった。しかし彼の王妃に対する心配りたるや大変なもので、愛人が王妃をないがしろにする行為に出ようものなら決して許さず、彼女の王妃としての面目を保った。王妃も愛人も十分にケアーする。それがこのスケベ王の物事がよくわかっている点である。  とはいえ愛人たちの方がチャールズ二世よりよほど上手《うわて》だったのではないか、と思われるフシがある。チャールズ二世の愛人の中で特に行動が派手で話題に事欠かないのは、バーバラ・ヴィリアーズという公爵《こうしやく》家筋の女である。  そもそも最初積極的に振る舞ったのはバーバラの方だった。彼女はれっきとした夫のある身でありながら王を誘惑したのである。しかしほどなくして王も彼女の虜《とりこ》に。チャールズ二世はそうこうするうちさすがに彼女の夫を意識し始め、彼に伯爵の位を授けるが、大喜びしたのはこの夫である。この男、元はといえばバーバラの家柄が目当てで結婚したのであり、妻が今や国王の寵愛《ちようあい》を受ける身となったことに、よくやったとばかり内心で拍手を送っていたのである。バーバラも伯爵夫人であることを自慢する有り様だ。  そのバーバラが子を産んだ。女の子である。さて父親はどちらだろうか。しかしお人|好《よ》しのチャールズ二世も、さすがにこの件ばかりは受け入れるわけにいかず、認知を拒否することにした。どう指折り数えてみても日数が合わないのである。だが翌年、バーバラが男の子を産むとこの子は認知された。それに気をよくしたのか彼女はますます大胆な行動に出るようになる。王そっちのけで若いツバメと楽しい時を過ごし、さらに翌年男の子を産むのである。  さてどうするべきか、チャールズ二世。彼は当然のことながら認知をためらうが、そんなことで屈するようなバーバラではない。あるときはさめざめと泣いてみせ、あるときには脅しにかかる。生まれたばかりの息子を連れてきて、認知しないとこの子の頭を割ってしまうが、それでもいいか、などと大芝居を打ってみせるのである。結局、チャールズ二世の根負けで、この子は晴れて王の庶子ということになった。さらに後年にはバーバラのおねだりで、まだ子どもでありながら公爵の位にも叙せられているのである(グラーフトン公)。『英国王と愛人たち』によれば、返す返すもその死が悔やまれるダイアナ元皇太子妃はいくつもの経路でチャールズ二世と愛人たちにつながっている人だが、その一つがこのグラーフトン公家を経由するものだという。彼女にはバーバラの血が、おそらく何十分の一かで流れていたのである。もっともチャールズ皇太子にしても、バーバラ自身にではないものの彼女の家系に系図上つながっているのだが。  バーバラは気ままに若い男をつまみ食いしながらチャールズ二世の愛人生活を続ける。断わっておくが、これらは、れっきとした夫がおり、伯爵夫人という立場がありながらの行為である。彼女はさらに女子、男子と次々出産するが、いずれもチャールズ二世に認知を承諾させてしまう。そしてついには明らかに王の子ではないと思われる女子を認知させることにも成功した。父親はジョン・チャーチルという小姓出身の、非常に目先の利《き》く男である。  あるときチャールズ二世が予告なくバーバラを訪ねてきたところ、二人は大事な仕事の真っ最中だった。ジョンは慌《あわ》てて服をかき集めると脱兎《だつと》のごとく窓から逃げ出すが、チャールズ二世は「ジョンが|パンのため《ヽヽヽヽヽ》にやっていることだ」(前出、森氏の著書)として咎《とが》めることはなかったという。バーバラから小遣いをもらっていたジョンの立場というものを思いやったのである。  それにしても生まれてきた子を次々認知するチャールズ二世とは聖人なのか、それとも単に女が恐《こわ》いだけの男なのか。ジョンはその後出世に次ぐ出世を果たし、最終的には公爵位をも授けられている。これが有名なモールバラ公家の始まりで、あのウィンストン・チャーチルもダイアナ元皇太子妃も彼の子孫ということになるのである。バーバラはやがてジョンともチャールズ二世とも別れ、六五歳を越えてからも再婚話をめぐって騒動を起こすという一幕も演じたという(バーバラ・ヴィリアーズの話について詳しくは前出森氏の著書などをご覧になるといい)。  チャールズ二世は少し好色の度が過ぎる人だったかもしれないが、英王室とその周辺が、大なり小なりこのような自由恋愛の世界だったことは間違いない。では英国の庶民の生活はどのようなものだっただろう。乱れた性関係は王侯貴族の特権なのか。  チャールズ二世の時代を例にとれば、たとえば彼の愛人の一人で、ウィットに富んだ明るい性格から他の誰よりも王に愛され、国民にも人気があったネル・グインが参考になるかもしれない。彼女はロンドンの下町の貧しい階層の出身である。やがて女優になるのだが、まず劇場支配人の愛人としてスタートする。彼の後楯《うしろだて》で女優として大成功するが、続いて詩人で後に伯爵となる人物と恋仲になる。しかし破局。あるとき劇場で芝居を見ていたところ、やはり芝居見物に来ていたチャールズ二世に見初《みそ》められたという次第である。まさに恋愛を謳歌《おうか》しているという感じである。  庶民とは言い難いかもしれないが、サミュエル・ピープスも大いに参考になるだろう。海軍省の役人だった彼だが、暗号で記した日記が数世紀を経て解読され、本人の与《あずか》り知らぬところで一躍有名になってしまった。日記の中で彼は、数々の恋愛事をこちらが恥ずかしくなるくらいに率直、かつ下品に披露する。浮気の告白はもちろんのこと、自分のことは棚に上げ、妻と美男のダンス教師の仲を気も狂わんばかりに嫉妬《しつと》し、その激情のほどを書き連ねる。一六六五年、ロンドンがペスト禍に襲われたときなど妻を田舎に疎開させ一人ロンドンに留まるが、相変わらず浮気の虫は収まらない。衰えを見せぬペストの勢いに、もはやこれまでかと覚悟を決めて遺言書をしたためるものの、途中でペンを置くと愛人のもとへ。帰って来るとその続きを書くという、悲劇とも喜劇ともつかぬ振る舞いを演ずるのである。後に海軍大臣にまで出世した人物の恋の相手は、店の売り子あり、人妻あり、お手伝いさんあり、とまことに多彩である。英国では庶民もまた伝統的に性を楽しんできたという気がしないでもない(サミュエル・ピープスの日記については『ピープス氏の秘められた日記』、臼田昭著、岩波新書をご覧になるといい)。  では現在の英王室がどうか、などと詮索《せんさく》するのは野暮なので割愛することにして、現在の英国庶民の実態はどのようなものだろうか。ここでまたR・ベイカーとM・ベリスに登場願うとする。彼らは一九八九年──それは彼らが人間の性行動の研究を行なっている真っ最中のことなのだが──発行部数四〇万部以上を誇るイギリスの女性誌『カンパニー』で大々的なアンケートを行なった。イギリスの人口は日本の半分くらいだから、この雑誌の発行部数は日本で言えば八〇万部以上にも相当する。あまり品のいい雑誌とは言えないが、だからこそ意味がある。本音を聞き出し、実態を知るためには�上品�で�知的�な雑誌ではだめなのである。質問は全部で五七項目に上るが、たとえばヴァージンか否《いな》か、これまで累計で何回くらい性交《セツクス》したか、経験した男の数は何人か、現在メインのセックスパートナーはいるか、月経周期について、一番最近の性交《セツクス》が|IPC《ペア交尾》か|EPC《ウワキ》か、それは月経周期のいつ頃に当たっているか、などといったことまでズバリ聞いてしまう。  質問に答えたのは全部で三六七九人の女である。うちヴァージンは九二人だった。残る三五八七人は、下は一三歳の女の子から上は七二歳のおばあさんにまで及んでいる。回答が多かったのはやはり若い女で、年齢分布のピークは二一歳である。  まず、これまでの性交回数についてだが、ヴァージンではないと答えた三五八七人中三三九〇人の回答である。それによると五〇回以内という女が四八一人いた。五一〜二〇〇回という女が七九六人、二〇一〜五〇〇回が八九六人、五〇一〜一〇〇〇回が六三二人、一〇〇一〜三〇〇〇回が四七七人、三〇〇一回以上が一〇八人という結果である。これだけならまだ少しも驚かない。問題は交わった男の数である。  性交回数が五〇回以下という四八一人が交わった男の数の平均は、何と三・二人だった。中央値、つまりこの四八一人が「男の数」について順に並んだときちょうど真ん中の女が持つ値で、最も常識的な、最も普通であると考えられる数は二人である。まだほんの初心者であってもこの値なのである。さらにこの四八一人の中には「男の数」が一一人以上二〇人以下という女が一一人(二・三パーセント)、二一人以上という強者《つわもの》も二人(〇・四パーセント)含まれている。何か金銭的なものが絡《から》んでいるのか、はたまた単なる見栄《みえ》なのか、それにしても凄《すご》い値である。一方、一人としか交わっていない女は四八一人中たった一七一人だった(三五・六パーセント)。以下二〜五人が二四二人(五〇・三パーセント)、六〜一〇人が五五人(一一・四パーセント)という結果である。  経験回数が増えるにつれ「男の数」が増えるのは当たり前だが、その増え方がまた凄い。性交回数五一〜二〇〇回という七九六人の「男の数」の平均は六・一人、中央値は四人だった。二〇一〜五〇〇回の八九六人では平均八・五人、中央値五人、五〇一〜一〇〇〇回の六三二人では平均一二・七人、中央値七人、一〇〇一〜三〇〇〇回の四七七人では平均一四・九人、中央値八人、と非常に着実に「男の数」は増えていくのである。ちなみにベイカー&ベリスは性交回数五〇〇回を「経験を積んだ」女の目安としている。  そしてとうとう性交回数三〇〇一回以上の超ベテラン一〇八人ということになる。「男の数」の平均は三六・二人、中央値は一〇人である。しかしその内訳だが、過去に男は一人だけだという女もちゃんといて六人(五・六パーセント)である。二〜五人という女が二四人(二二・二パーセント)、六〜一〇人という女が二七人(二五・〇パーセント)、一一〜二〇人が一七人(一五・七パーセント)、二一〜五〇人が二三人(二一・三パーセント)、五一〜一〇〇人が五人(四・六パーセント)、一〇一人以上が六人(五・六パーセント)である。「男の数」が一〇一人以上であるのはここでは六人だが、これより性交回数が少なくても男は多いという女は当然いるのであり、アンケート全体では一四人に上《のぼ》った。しかしそのうちの一二人は、やはりと言うべきか行為を職業とする人々だった。  質問の中でさらに興味を掻《か》き立てられるのは、一番最近の性交《セツクス》が|IPC《ペア交尾》だったか|EPC《ウワキ》だったか、それが月経周期のいつ頃に当たるかというものである。現在メインのセックスパートナーがいる二七〇八人が対象となった。  それによると|IPC《ペア交尾》が最も頻繁なのは、驚いたことに排卵から月経までの二週間、つまり一番妊娠の可能性の低い期間なのである。  なぜそういう時期に頻繁に性交《セツクス》するのだろう。いや、これは|IPC《ペア交尾》は女にとって必ずしも妊娠を目的としたものではないということなのである。性交《セツクス》することでパートナーの機嫌をとる。贈り物、お金、あるいは子どもの世話など自分に対してもっともっと投資させようとする……。そして男は、月経周期や妊娠しやすい時期についてまたしても女に騙《だま》されていることになるのである。男は女の月経周期を見分け、射精精子数を調節することができないわけだが、こうしてみるとそのそもそもの段階で道を誤っていることになる。男は精子数どころか、性交《セツクス》のタイミング、そして回数自体を調整することさえままならないのである(月経周期には個人差があるが、すべての値は二八日をサイクルとする標準の月経周期に補正されている。この周期によれば、月経一日目を第一日とすると排卵は第一四日、妊娠の可能性が高いのは第九日〜第一四日である。妊娠の確率は徐々に高まり、排卵の二日前の第一二日をそのピークとして急激に落ち込む)。  一方|EPC《ウワキ》は排卵前の、最も妊娠の可能性の高い数日に集中している。女は単にアバンチュールとして、あるいはスリルを味わうために|EPC《ウワキ》するわけではない。女にとって|EPC《ウワキ》とは、何らかの優れた資質を持った男の遺伝子を取り入れようとする試みだ。とすればただ性交《セツクス》するだけではダメで、妊娠しなければ意味がないのである。  だがそんなことよりも驚くべきは、|EPC《ウワキ》の中でも特別な、ダブルメイティングと呼ばれるケースである。ダブルメイティングとは、前の男の精子がまだ受精能力を持っているうちに次の男と性交《セツクス》することである。精子の受精能力が持続するのはおよそ五日間と考えられるから、前の男との行為から五日以内の性交《セツクス》と定義することができる。  最後の性交《セツクス》が|EPC《ウワキ》だったと答えた一六二人のうち、五〇人がダブルメイティングに該当した(ということはそれを遡《さかのぼ》る五日以内に|IPC《ペア交尾》もしている)。そのダブルメイティングによる|EPC《ウワキ》が発生する確率を月経周期に従って割り出すと、何とそれは妊娠の確率を示す曲線と見事に一致してしまうのである。妊娠の可能性にあわせてダブルメイティングの|EPC《ウワキ》を実行している。一方、ダブルメイティングではない普通の|EPC《ウワキ》の場合には、確かに排卵期にピークはあるものの、それほどまで見事には妊娠曲線と一致しなかったのである。  このダブルメイティングとはいったいどういうことだろう。  それはまず、わざわざ妊娠の可能性の高い時期を狙《ねら》い、女が二人の男と交わるということである。女は他ならぬ自分の体内で、二人の男の精子を競争させようとしている。ヨーロッパクサリヘビのメスが、繰り返し違うオスと交尾するように。  勝者が卵の父親となるだろう。それは|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》に勝ち抜いた、正真正銘の優れた精子の持ち主なのである。勝者はパートナーかもしれないし、|EPC《ウワキ》の相手かもしれない。しかしいずれにしても子を育てるのはパートナーということになるだろう。そういう意味でもダブルメイティングは意義深いのである。もし|IPC《ペア交尾》を行なわずに|EPC《ウワキ》だけしていたり、|EPC《ウワキ》と|IPC《ペア交尾》のタイミングがひどくずれていたりすると、妊娠に疑念を抱いたパートナーが自分を置いて逃げ出す、という事態にも陥りかねない。あるいは子が生まれるまで辛抱したとしても�我が子�に対する拭《ぬぐ》い切れない疑惑から、彼は子育ての放棄を宣言するだろう。ダブルメイティングにはそういう疑惑の数々に対するカムフラージュの意味も含まれているというわけだ。人間はヨーロッパクサリヘビのようでもあるが、チンパンジーのようでもある。  しかしそれだけではない。人間のダブルメイティングは単なる|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》の問題ではないのである。実はダブルメイティングのほとんどが|IPC《ペア交尾》→|EPC《ウワキ》の順で行なわれているらしいのだ。逆は少ない。しかもダブルメイティングによる|EPC《ウワキ》の発生の割合は、妊娠曲線とぴったり一致する……。つまり、いかに|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》が起きるとはいえ、このレースは、最初から|EPC《ウワキ》の相手に有利なように出来ているのである。おまけに「|EPC《ウワキ》のときには精子も元気」ときている。ますます浮気相手に有利なことになる。要するにダブルメイティングのときの|IPC《ペア交尾》はカムフラージュであり、本命はやはり|EPC《ウワキ》にあるのではないだろうか。|IPC《ペア交尾》をあらかじめ行なうのは、パートナーを安心させて|EPC《ウワキ》がバレることを防ぎ、生まれてきた子をちゃんと彼に育てさせようとする工作ではないのか……。  こういう考えが穿《うが》ち過ぎであるということは決してない。ベイカー&ベリスはこれとは別に、女が月経周期のいつ頃に活発に外出するか、いつ頃にはパートナーと過ごす時間の割合が高いかということを調べている。その結果は驚くばかりだ。  即《すなわ》ち|パートナーがいる女《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》は妊娠の可能性の高い、排卵前の時期に活動的、月経前の妊娠の可能性の低い時期には活動的ではない。片や|パートナーのいない女《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》は排卵前には活動的ではないが、月経前には活動的となり、傾向は全く逆なのである。さらに|パートナーのいる女《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》は、排卵前の数日をあまりパートナーと過ごさないのに対し、月経前の数日はよく過ごす──。  女は|EPC《ウワキ》によってより優れた遺伝子を取り入れ、その結果の子をそうとは知らぬパートナーに育てさせようと企てているのである。女本人にそのつもりがなくても現実にそうなのだ。他方、現在パートナーのいない女にはそういう芸当はできない。彼女が犯してはならない過《あやま》ちは、父親になってくれる男をキープしないままに身籠《みごも》ってしまうことだ。そして現在なすべきことは、パートナー探しである。彼女が排卵期に行動を慎み、月経前に盛んに活動するという、パートナーのいる女と正反対の行動を示すのはそういう事情があってのことだろう。これまた女本人の自覚なしに行なわれているのである。現代の、いわゆる先進国の人々は多くの場合は避妊しているが、避妊しているか否かに関わりなくこういう傾向は出てくるのである。  チャールズ二世の愛人バーバラ・ヴィリアーズは、王と若いツバメをかけ持ちした。当然ダブルメイティングも実行していたに違いない。妊娠の可能性の高い時期には王→ツバメ(つまり|IPC《ペア交尾》→|EPC《ウワキ》)の順で戯《たわむ》れ、低い時期にはもっぱら王のご機嫌をとっていたのではあるまいか。むろん彼女がそんなことを意識していたわけではないだろうけれど。そして生まれて来た子は次々王に認知させる。見事ではないか。イギリスだけが特別というわけではないが、こうしてみると英国は、昔も今もそう変わっていないように思われるのである。 [#改ページ]  売春の意味論 娼婦《しようふ》の戦略[#「娼婦《しようふ》の戦略」はゴシック体]  一九八〇年代に行なわれたある調査によると、世界一五〇の社会のうち、売春が文化として存在するのは一三八、実に九二パーセントに上るという。売春は�世界最古�の職業と言われる。しかし同時に、世界に最も普遍的な職業ともいえるのである。  ところがその伝統ある文化に対する評価といえば、あまり芳《かんば》しくないものばかりだ。  金のために身を売る、家族のために犠牲になる、遊ぶ金欲しさの短絡的行為、性を道具にしている……。貧困、悲惨、刹那《せつな》的、不道徳……。売春という行為の裏に見え隠れするのは常にマイナスのイメージである。もちろん貧困のために、家族の生活のためにやむをえず、という不幸な例も少なくはない。しかし私が今ここで注目したいのは、そういう周囲の状況からやむなくというものではなく、本人の意志による、自発的な売春である。  今の日本の女の子たちの中には「売春」を「売春」と思わず、いたって平気な顔をして紛れもない「売春」をしている例がある。彼女たちは言う。「別に悪いことしていない。誰にも迷惑かけていないじゃないの」、「いろんな人と出会えて楽しい」。  彼女たちは特に金に困っているわけではない。ただちょっと贅沢《ぜいたく》をしたいだけ、ブランド品のどれそれが欲しいというだけなのである。こうしてみると、何も貧困だけが、それも赤貧洗うが如《ごと》しの貧困だけが、売春の動機となっているとは考えられないような気がしてくるのである。  プロと言われるような人々の中には家庭の問題から、あるいは借金など、様々な事情からやむをえずそういう状況になっている人がいる。できれば早くやめてしまいたい、と思っている人も少なくはない。しかしそうではないという人も、やはりまた相当数存在するのである。それらの人々の意識も、かの素人《しろうと》ギャルのものとそう変わらないのではないだろうか。悪いことはしていない、仕事は嫌ではない──。  そういった、特に追い詰められたわけでもないのに自ら売春に走り、それをお金のためと割り切る、特に苦でもなく、罪の意識も感じないという人々は、不道徳で、考えが浅くてアタマが悪いのだろうか。軽蔑《けいべつ》されて仕方のない存在だろうか。  そうではないのではあるまいか。売春にさほどの抵抗感がないという女はどんな社会にも必ず存在する。売春は単なる堕落とは違い、人間の進化の歴史の中で、何かよほど重要な意味を担《にな》ってきたと思わざるを得ないのである。そうでなくてどうして、�世界最古�で世界に普遍的な職業となりえただろうか。幼女売春、誘拐されて娼婦として売り飛ばされる、脅迫されて売春させられる、親の借金のカタに売られるなどといった不幸な例もあるにはあるが、そういう本人の意志とは関係のない売春についてはここでは考えないことにしよう。  人々が売春に対してさほど非難がましくもなく、女も女で売春にそれほどまでには抵抗感がなさそうだ(これはあくまで印象である)と感じられる地域。そういう地域に共通した特徴だと思われる条件は、私の見るところ、気候が暑く湿度が高く、寄生者《パラサイト》の脅威がいかにも大きそうだということである。寄生者《パラサイト》とは細菌《バクテリア》、ウイルスなどの病原体、寄生虫など、自分自身では生きていくことができず、他者に寄生し、多くの場合病気を引き起こす生物のことである。断わっておくが、それらの地域の特徴は決して�貧しい�とか貧富の差が大きいということではない。確かに貧困は売春の一つの大きな動機付けにはなるだろう。しかし本人の意志による場合、貧困と売春とは必ずしも関係がないのではないか、というのが私の感想である。  寄生者《パラサイト》の脅威が大きいと、まずどういうことになるのか。それは婚姻形態が一夫多妻に傾くということである。  B・S・ロウという人類学者が、かつて世界の一八六の民族、部族を調べたところ、婚姻形態と寄生者《パラサイト》の脅威との間には著しい相関があることがわかった。寄生者《パラサイト》の脅威の大きい地域ほど一夫多妻の傾向が強く、寄生者《パラサイト》の脅威の小さい地域ほどその傾向は弱まる。つまり、一夫一妻の傾向が強まるのである。  なぜそんな傾向が現れるのかというと、それはこんなふうに説明されているのである。  寄生者《パラサイト》の脅威の大きい社会では、女はそれら寄生者《パラサイト》に抵抗力のありそうな男を選ぶだろう。その男との間にできる子孫は、寄生者《パラサイト》に負けることなく有利に生き延びていくことができるからである。寄生者《パラサイト》に強そうかどうかを判断する手掛りは外見にあるということも別の研究者によって明らかにされている。  ところがそういう男には数に限りがある。結果として特定の男に女の人気が集中する。即《すなわ》ち婚姻形態は一夫多妻に傾くという次第なのである。一方、寄生者《パラサイト》の脅威の大きくない社会では女は寄生者《パラサイト》云々《うんぬん》にあまりこだわる必要はない。それよりも自分に対し、できれば自分だけに対し、ケアーし投資をしてくれる男を探すことだろう。そんなわけで今度は一夫多妻ではなく、一夫一妻の傾向が強まるのである。これらの傾向は社会に貧富の差が大きいかどうかとは関わりなく現れる。もっぱら寄生者《パラサイト》の脅威の大きさと関連して見られるものなのである。  では婚姻形態が一夫多妻に傾いているとどういう現象が起きるだろうか。それは男の中に、女にあぶれる者が出てくるということだろう。あぶれる男は、その社会が一夫多妻に傾いていればいるほどに多い。  すると、そういう男は社会の中でどう振る舞うのか。夫のある女を口説き、しばしば彼女の浮気相手を演ずることもあるだろう。口説くのが無理となれば、力に訴える、つまりレイプに及ぶこともあるかもしれない。しかし彼は、金銭と引き換えの性行為に赴くことがしばしばであるに違いない。つまり一夫多妻社会、寄生者《パラサイト》の脅威の大きい熱帯などの社会では売春が商売として繁盛《はんじよう》するという次第なのである。  実際、すべての女の中に占める娼婦の割合がどれくらいであるか、イギリスやアメリカの研究者が地域別に調べたことがある。それによると最高記録を示したのは、エチオピアのアジスアベバで二五パーセント(!)というものだった(一九七四年)。一方、最低記録は一九八〇年代後半のイギリスで〇・四パーセントである。それにまた、あのマルコ・ポーロは『東方見聞録』の中で、北京には二万人以上の娼婦がいるが、杭州となると「多すぎてわからない」と言っている。マルコ・ポーロはホラ吹きの名人だから用心しなければならないが、確かに北京より杭州の方が南に位置し、寄生者《パラサイト》の脅威も強そうである。  熱帯などの社会ではまず、売春業が繁盛する。需要が大きく、そもそも娼婦自体の数が多いのだから、売春に後ろめたさや暗さが伴いにくいのかもしれない。女は売春によって得た金銭を自分はもちろんのこと血縁者に回し、彼らの生存と繁殖のために貢献するだろう。娼婦は自分ではあまり子を産まない代わり、血縁者を介して遺伝子のコピーを増やす。人間は、遺伝子のコピーが増えるのにつながることを喜びと感ずるようプログラムされている。売春することが苦痛ではないという心が進化したとしても、それは不思議なことではないのである。  しかし……、である。娼婦が主に血縁者を介して遺伝子のコピーを残すのはいいとして、それはやはりどうもしっくり来ないような気がする。娼婦にとっての売春の意味とは、もっと直接的なものであるかもしれない。それに娼婦が血縁者の繁殖に貢献するといっても、それがどれほどのものであるかはわからないではないか。家族や血縁者のためにせっせと送金したり、何らかの援助をもたらしている娼婦がどれほどいるだろうか。もちろんそういう人がいないわけではない。けれども娼婦の生き方として最も想像しやすいのは、家族とはまるで絶縁状態になってしまうような孤独な人生だ。金は血縁者へはほとんど回らない。代わりに存在するのがヒモ亭主。彼は彼女が稼いだ金を、稼ぐそばからかすめ取っていくだろう。金は酒、バクチ、他の女(それこそ娼婦?)のために使い果たしてしまう。つまり彼女がいくら働いたとしても、金はちっとも彼女のもとへは回って来ないのである。それでも彼女は働く。なぜなのか。ヒモ亭主から逃れられないからだろうか、他に仕事がないからなのか……。いや、娼婦が売春することには金には代えられない何かよほどの利益があるに違いない。娼婦にとっての本当の利益とは……。  そうして思い到《いた》る娼婦の利益とはやはり遺伝子だ。娼婦だって子を産むことがある。子の父親はヒモ亭主かもしれないし、客の一人であるかもしれない。いずれにしても彼女は子を産むのである。  二〇世紀初めまで、あるいはつい最近まで娼婦はこれといって有効な避妊手段を講じてきたわけではなかった(地域によっては依然として従来のままである)。彼女の体の中には常に何人、何十人もの男の精子が、彼女のヒモ亭主も含めて渦巻いている。凄《すさ》まじいまでの|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》が起きているのだ。これはもうダブルメイティングどころか、トリプル、クオドゥルプル、いやマルチメイティングの世界だ。そうして得られた彼女の子は言うなればエリートだ。超難関をかいくぐってきた、保証書付きの生存力、そして競争力の精子、その精子の持ち主を父親としている。その子がまた素晴らしい生存力と競争力を持っていることは疑いないのである。それにその子が男であるのなら、将来父親と同じ行動パターンを示すようになり、娼婦のもとへと赴いていく。彼女の体の中での凄まじい|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》に勝ち抜くことだってあるだろう。動機はどうあれ、娼婦が無意識のうちに狙《ねら》っているのは、このように抜群の生存力、競争力を持った精子を無数とも言える男の中からスカウトすることではないだろうか。かの北欧の毒ヘビのように。  生存力と競争力の強い子を得る、そのために毎日仕事をする。こんな実りのある仕事が他にあるだろうか。だいたい世の人々は仕事でまず報酬を得、それを元に繁殖活動を行なうなどという効率の悪い方法を用いている。ところが娼婦は報酬を得ると同時に繁殖までこなしてしまうのだ。それも生存力と競争力に優れた超エリートの子を得る……。  とは言うものの、娼婦が売春で子を得ようとするのはいいが、一方でこんな意外な、いやある意味では意外ではないかもしれない事実も知られているのである。  娼婦はなかなか妊娠しない。  不妊の原因として考えられるのは、まず第一に抗精子抗体なるものの存在である。精子に対して抗体ができる。  考えてみれば当たり前のことで、精子は女の体にとって外界からの侵入物、つまり非自己である。自己でないものに対しては抗体が作られる。それは相手が精子であっても変わりがないのである。抗精子抗体は精子に働きかけ、その動きを抑え込んでしまう。卵に到達する精子を減らし、受精を起こりにくくするというわけである。娼婦のように常に体が精子で満たされ、精子が供給過剰の状態にある場合には抗精子抗体も多量に存在する。それが不妊につながるわけである。この不妊を治療するためには、しばらく精子の侵入をストップさせるしかない。抗精子抗体が新たに作られることを防ぎ、今ある抗体が消滅するのを待つのである。実際、原因不明の不妊に悩む女性に対し、性交《セツクス》を断つか、夫にコンドームを使用してもらうかしてしばらく精子の侵入を防ぐよう指示がなされたところ不妊が治ったという例がいくつもある。これらの夫婦では夫の精子の数が多すぎるか、はたまた夫婦生活が活発すぎて抗精子抗体が作られすぎていたらしい。  娼婦が妊娠しにくいことのもう一つの原因は、多精(polyspermy ポリスパーミー)と呼ばれる現象である。一つの卵が複数の精子で受精させられてしまうことだ。  精子は卵に侵入するや否《いな》や卵の膜の電位を変化させ、他の精子の侵入を妨害する。だから卵は普通一つの精子でしか受精されない。ところが稀《まれ》にこういうことがあるのである。こうした多精による受精卵は正常に発生することができず、妊娠の早い段階で流産になってしまい、結果として妊娠しなかったのと同じことになる。多精が起こりやすい条件もやはり、卵に対して精子が多すぎるということにあるのである。  話は少々はずれるが、できるだけ多くの男と|避妊しないで《ヽヽヽヽヽヽ》交わると妊娠しない、という噂《うわさ》が若い女の子たちの間に飛び交っていると聞いたことがある。何年か前のことなので今はどうかは知らないが、そのとき思ったのは「何と無知な……」ということである。避妊しないで多くの男と交わるなんて……。妊娠したくないという心理が高じ、ついにはこんな迷信まで生まれてくるのか、と。しかし考えてみればこれは、迷信などではないのである。避妊していない娼婦と結局は同じことなのだ。娼婦が妊娠しにくいのと同様、彼女たちが妊娠しにくくなっても不思議はないのである。私はいつも感心するのだが、若い女の子の勘というものは実に空恐ろしいばかりだ。そして常に正しくもある。  ともあれこうして娼婦は妊娠しにくいということになる。では娼婦は全く子を産まないのかと言うと、そうではない。それでも娼婦は子を産むのである。  その子はどういう子だろうか。  彼(彼女)はまず、凄まじい|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》を勝ち抜いた、勝利者の子である。彼(彼女)の元となった精子は何人、何十人にも及ぶライヴァルを蹴落《けお》としてきた。さらに彼(彼女)は、抗精子抗体と多精という娼婦の二大不妊原因をもクリアーしたというわけなのだ。その生存力、競争力、そして運の強さのほどは測り知れない。つまり娼婦が無意識のうちに狙っているのは、このように徹頭徹尾�強い�精子である。それを取り入れることなのだ。  熱帯などの地方では寄生者《パラサイト》に強い、生存力に優れた子を産むかどうかが運命の分かれ目である。そういう意味で娼婦になることは──もちろんそれが本人の意志によれば、の話だが──大変に優れた生物学的選択だろう。お金が儲《もう》かるのはもちろんだが、それ以上に、素晴らしい生存力を持った宝のような子が手に入る。それらの地方で売春にさほどの非難が浴びせられないとしたら、そこには、もしかしたらそんな背景が隠されているのかもしれない。一部の女が売春にあまり抵抗を感じないとしたら、それは売春が人間の歴史の中で重大な意味を担ってきたから、最強の精子を捕まえる絶好の機会であり続けたからではあるまいか。 [#改ページ]  レイプは本当に男の側だけの戦略なのか 湧《わ》き起こる疑問[#「湧《わ》き起こる疑問」はゴシック体]  ランディ・ソーンヒルというちょっと変わったアメリカ人の学者がいる。一九九一年、彼が来日した折に私はちらりと尊顔を拝する機会を得たのだが、そのときの印象といったら、ない。私がこの目で見、感銘を受けた学者のベストスリーに入れてもいいくらいである。  はっきり言って彼は相当にいい男である。もしドーキンスがイギリス上流階級の、代々相続する財産で一生を苦もなく過ごすといった風情《ふぜい》の余裕と品とを持ち合わせたいい男であるのなら(あくまでもイメージである)、こちらは野育ち。アメリカの開拓者精神と進取の気象とを体現する、まるでハリウッドの俳優かと思わせるようなワイルドで端正なルックスである。しかし印象深いのは風貌《ふうぼう》ばかりではない。彼は学者にしては珍しく、いや、これこそ真の学者だと思うのだが、何事も身を以《もつ》て実践するという人なのである。  ソーンヒル曰《いわ》く、日本に来ていろいろ実践してみたのだが、日本の女はどうもある特殊な状況で発する音声がサブミッシヴ(服従的)だ、どうしてだろう?  そこでさっそく我が日高研究室随一のヴィデオ通であるH君にお呼びがかかることになった。彼は毎日せっせとレンタルヴィデオ屋へ通った。ソーンヒルと彼とは白昼堂々たった二人のヴィデオ観賞会を開くことと相なったのである。あれは夏の真っ盛りのことだったが、当時我が研究室にはエアコンというものがなく、唯一《ゆいいつ》冷房のきいた鳥の飼育小屋でそれは行なわれた。�研究�は日に数時間に及ぶこともあったという。H君が持てる知識を余すところなく披露したであろうことは想像に難くない。しかし今でも悔やまれてならないのだが、ヴィデオ研究の成果がどうなったのか、私はついぞソーンヒルに聞く機会を逸してしまった。誰にもそれはわからないのだという。  そのソーンヒルが行なった大変有名な研究に、人間のレイプに関するものがあるのである。夫人のナンシーが共同研究者だ。  アメリカでは報告されているだけでも年間に六万件ものレイプ事件が起きている。実数はその一〇倍の六〇万件くらいであろうと考えられている。アメリカの人口は日本の二倍くらいだから、日本で言うなら三〇万件、人口四〇〇人あたり一件にも相当する。ある試算によると、サンフランシスコ在住の女性の四人に一人は生涯に一度実際にレイプの被害に遭い、五人に一人は未遂とはいえレイプの恐怖を味わうことになるという。女の半数近くが、何らかの形でレイプに遭遇してしまうのである。ソーンヒル夫妻はそれらアメリカでの膨大なレイプのデータを手掛りにその行動の進化を議論した。  一九八〇年代から九〇年代にかけて発表された彼らのいくつもの論文によれば、レイプは女にあぶれた男の繁殖戦略である。たいていは若く、貧しく、社会経済的地位の向上を望めない男が、そしてパートナーがいるにしても彼女が浮気性で、本当に自分の子を産んでくれるかどうかの確信が持てないという男が、やむをえずにとる繁殖の手段ということになる。彼らはレイプ犯の年齢や社会階層、レイプの被害者の年齢といったことなどを調べ、こうした結論を導いているのである。被害者の年齢分布は二〇歳代前半という、確かに妊娠の可能性が最も高い時期にピークがあった。  ソーンヒル夫妻が人間のレイプについて研究を始めたのは、そもそも夫の方のランディ・ソーンヒルが、長年にわたりガガンボモドキやシリアゲムシの研究をしていたことがきっかけとなっている。これらの昆虫のオスはメスに、婚姻の贈り物としてハエやコオロギなどの小さな昆虫をプレゼントすることで知られる。メスがプレゼントのエサにすっかり夢中になって食べている間に限り、オスは交尾することが許される。種によってはプレゼントの大きさに応じ、メスが交尾時間の出し惜しみをするほどである。  あまりに小さいエサであるとその仕打ちは非情だ。交尾することはするものの受精は起きない、というスレスレのタイミングで切り上げてしまうのである。しかしシリアゲムシのある種ではオスはついに強行手段に訴える。贈り物を手に入れることができず、自分のエサにも事欠くオスが、レイプに及んでしまうのである。  ソーンヒルはこのシリアゲムシを使って実験を試みた。オス数十匹を条件の違う三グループに分けて一匹ずつガラスの容器に飼う。そしてメスに対してどう振る舞うかをテストするのである。  一つ目のグループには、あらかじめ各人にコオロギの大二匹が与えられる。彼らは十分な栄養をとることが許される。かくなるうえでメスへのプレゼント用としてコオロギの中一匹を持たせてもらうのである。二つ目のグループでもやはりコオロギの大二匹が与えられるが、プレゼント用のコオロギは渡されない。そして最後のグループは四日間エサを一切与えられず、ひどく餓えさせられるのである。むろんプレゼント用のコオロギなどもっての外である。そうしてそれぞれのオスはメスと対面させられた。さてどうなるか。  一番目の最もリッチな条件では、オスとメスとはごくノーマルに交尾した。つまりオスがメスにコオロギをプレゼントし、彼女がそれを食べている間に交尾する。  二番目のやや苦しい状況では面白い行動が見られた。オスは苦肉の策として、自分の唾液《だえき》で作った団子のような固まりをプレゼントしたのである(こういう行動は自然界でも見られる)。さすがに本物のエサのようにはいかないが、それでもメスはないよりはましとばかりにそれを食べ、交尾することを許した。実を言えばこの唾液の固まりは、ひどく餓えているときには作ることができない。プレゼントはなくとも、「ボクはここ数日間、自分の食べる分くらいはしっかり稼いでいますよ」と確かにエサを手に入れていることを証明する手立てになっているのである。メスはその点を評価し、交尾を許してやるらしい。  そして最後の、プレゼントもなく、唾液すら出ない、ひどく困窮したオスたちはといえば、ことごとくレイプした。餓えるとオスはレイプするらしいのである。レイプは最後の手段というわけだ。  一方、野外のオスたちはといえば、エサをめぐって激しく争っている。勝敗はだいたい体のサイズによって決まってくる。体の大きいオスはプレゼント用にもエサを獲得し、正攻法でメスにアプローチする。中くらいのオスはプレゼント用に回すエサはなかなか得られず、唾液作戦で。そして体の小さいオスはレイプ、とだいたい傾向が現れるのである。しかし興味深いのは体の大きいオスを研究者が取り除いてやると、小さいオスはすぐさまレイプをやめるということである。彼らにも多少はエサが回ってくるからである。レイプはやはり、やむにやまれぬ手段なのだ。  この研究からわかるのは、レイプするオス、しないオスが遺伝的に決まっていたり、レイプしがちなオスがいる、などということはないこと、オスたるもの状況次第で戦略を変え、背に腹は換えられないときにはレイプも厭《いと》わないということである。むろんそれは、少なくともこのシリアゲムシでは、という話である。こうしてソーンヒルは、レイプは正攻法やそれに次ぐ戦略をとることが難しいオスの、やむにやまれぬ代わりの戦略であるという結論を得た。彼はそれを人間において検証しようとしたということだろう。  ソーンヒル夫妻の研究に対しては一部には批判も出るには出たが、それ自体は実に見事だ。特にシリアゲムシから人間へと話が進んでいく点が大胆だ。シリアゲムシと一緒にされてたまるか、と感じてしまう人々にとっては不愉快極まりない話かもしれないが、こういう議論は今の動物行動学では決して珍しいことではないのである。人間においてもレイプが、女にあぶれた男の一つの繁殖の手段であることは疑いないだろう。意識のうえでは性欲の処理や暴行が目的かもしれないが、無意識のうちでは繁殖が目的だ。それが証拠に男は妊娠の確率の高い年齢層の女をターゲットにし、女を傷つけることはあっても殺すことは滅多にないのである。強姦《ごうかん》殺人は確かに極めて不幸な例であるが、レイプ全体からみるとやはり特殊なケースだ。  ソーンヒル夫妻の仮説を見事と思う一方で、しかし私には少し腑《ふ》に落ちない点がある。彼らによれば、レイプは男の戦略である。女にあぶれた男の、やむにやまれぬ最後の手段である。それはよくわかる。では女はどうなるのか。女は、ただただ被害者ということになるのだろうか。  もちろん女はレイプによって大変な精神的被害を蒙《こうむ》る。人によっては一生を棒に振るくらいのショックを受ける。パートナーとの仲をこじらせ、彼を失う女だっているだろう。レイプ犯もさることながら、レイプされた女にこそ世間は冷たい視線を投げかける。それが証拠に届出されるレイプ被害は実際をはるかに下回っているのである。単なる精神的被害だけならまだしも、実際に妊娠してしまった場合の肉体的被害はいったいどれほどのものだろうか。それに、私がレイプされそうになったり、されたりしたらどうかということになると、どうしたってそれは嫌である。レイプされるくらいなら死んだ方がましだとさえ思っている。どう考えたところで、女は被害者以外の何物でもないように思われる。しかしその生物学的意味を考えてみるときに、沸々《ふつふつ》と疑問が湧き起こってくるのである。女が性をめぐる駆け引きで、いかにしたたかで悪賢いことか。レイプに関してだけは男に完敗、ただやられっ放しとはとても考えられないのである。  意外に聞こえるかもしれないが、そもそも女の体というものは妊娠に対し、極めて自己防衛的にできている。妊娠しないように、しないようにと用心しているのである。女は男に、さあどうぞと簡単に受精を許してしまうわけではない。時には何人もの男に|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》をさせ、生き残り競争を課している。女の体は恐ろしく意地悪だ。  まずその構造である。生殖器の所々には関門が、あるいは迷路となった行き止まりが存在する。特に難関なのは膣《ちつ》と子宮とを連結する、子宮|頸部《けいぶ》と呼ばれる箇所である。頸部というくらいだから幅は極端に狭まり、おまけに壁面にはくねくねと曲がった行き止まりの洞穴が無数に口を開けている。精子にとってはどれが子宮の方向やら、どれが洞穴の入り口やら、とおそらく判断に苦しむところだろう。  膣に分泌《ぶんぴつ》される粘液がまた、大変な曲者《くせもの》である。性交《セツクス》のとき膣にはいわゆる愛液が分泌される。これは女が感じていることの証拠であり、膣のすべりをよくし、いかにも男を受け入れる手助けであるかのように思われる。確かにそうなのだが、一方でこの液は精子殺しの液なのである。膣に分泌される粘液はバクテリア対策などから強い酸性だが、精子も酸性には弱い。精液の中には膣の酸性を中和させる物質が含まれているとはいうものの、卵に到達するためには粘液の中を泳ぐしか方法がなく、その粘液によって次第次第に活動を弱められ、悪くすれば殺されてしまうのだ。そして女が粘液を分泌するもっと大きな目的は、実を言えばペニスの摩擦によって膣が傷つくのを防ぐことなのである。ペニスの往復運動をなめらかにこそすれ、その運動の目的自体を助けているわけではないのである(もっともレイプの際には、とてもではないが粘液を分泌させるような余裕はないのだが)。  女は皆知っていることだが、排卵の一週間くらい前になると膣からは粘り気のある、時に白濁した液が排出されてくる。それは排卵の頃に量も粘り気もピークに達する。思えば、これもまた不思議な現象である。粘液を分泌していかにも男を歓迎する準備を整えているように見えるが、粘液が精子殺しの役割を持っている以上、必ずしもそうではない。妊娠の可能性の高い時期だからこそ、余計に妊娠しないよう対策を講じなければならないということだろうか。  しかし本当に驚くべきなのは性交《セツクス》の際の女のオルガスムスである。オルガスムスとは女が感じ、絶頂に達したという意味である。女はこのうえない喜びとともに自分を、ひいては自分の精子を受け入れようとしている──男はそう信じて疑わないだろう。ところが必ずしもそうではないのである。ベイカー&ベリスは一連の研究の中でボランティアに要請し、性交中、女のオルガスムスがいつ起こったか、男の射精とのタイミングはどうだったか、ということを記録させた。そのときのフロウバック(性交後、女の体から排泄《はいせつ》される、精液と女の体液が混じった液)も回収し、女のオルガスムスのタイミングが精子の受け入れ具合にどう影響を及ぼすかを調べている。  それによるとやはり女は魔物だ。何と射精一分前までのオルガスムスはむしろ精子を拒絶する働きを持つのである。精子を受け入れる方向に働きかけるのは射精の一分前から射精と同時、あるいは射精後数十分までだ。何回にもわたる子宮と膣の収縮が、膣内の精液をさらに奥へと吸引する効果を持つからである。とはいえ男が射精して二〇分も三〇分もして女がオルガスムスに達するなどということはそうあることではなく(と私は思うのだが)、結局、女がオルガスムスによって男をよく受け入れるとしたら、それが射精とほぼ同じタイミングで起きたときくらいなのである。何とも厳しい現実ではないだろうか。  射精前の女のオルガスムスが精子を拒絶する方向へ働きかけるのは、またしても膣の粘液のせいである。オルガスムスが粘液の分泌を促し、まず精子に対してブロックを築いてしまうのだ。それにもちろん膣内はいっそう酸性になる。精子にとっては非常に悪い条件の下へ放り出されることになるからである。  女が感じているかどうか、「いった」かどうか、感じているふりをする、「いった」ふりをするということが巷間《こうかん》で問題にされるわけだが、こうしてみるとこれら「いく」、「いかない」の問題はそう単純なものではないという気がする。男としては女が「いった」からといって喜んでばかりはいられない。彼女が早く「いった」場合には、それは喜んでいるふりをしてその実、「あんたの子なんか、本当は欲しくはないんだよ」と思っているのかもしれないし、逆に「いか」なかったからといってそれが「あんたなんか嫌い」という意味とは限らない。しかし、同時に「いった」り、少し遅れて「いった」場合には自分を大いに受け入れてくれていると考えて差し支えないだろう。女は無意識のうちにこうした微妙な操作を施しているのである。男女の仲は複雑にして怪奇、人々の知らない世界がまだまだ存分に広がっているのである。  ところで女のマスターベーションの意味について、ここで少し考え直してみてもいいかもしれない。  女のマスターベーションの意義の第一は、オルガスムスによって粘液を大量に分泌させ、膣を滅菌するということであった。しかしここで議論しているように、粘液には同時に精子を殺したり、ブロックを築くという働きがあるのだ。ということは性交《セツクス》の前にあらかじめマスターベーションしておく。そうすれば性交《セツクス》の途中で、しかも男よりも早く「いく」などという難しい芸当をこなさなくてもいいということなのである。  女は、あまり望ましくないと思っている男との性交《セツクス》の前には無意識のうちにマスターベーションしてしまうのではないだろうか。これが女のマスターベーションの第二の意義なのである。実際、ベイカーは、女は|EPC《ウワキ》の前にはあまりマスターベーションしないが、|IPC《ペア交尾》の前にはよくすると言っている(男は|EPC《ウワキ》の前によくマスターベーションし、女は|IPC《ペア交尾》の前によくする。男と女でパターンが逆であることに注目!)。  ともあれこのように、女の体はその基本において妊娠しないよう、しないようにとできている(逆に言えば、本当に妊娠したいときにだけ妊娠する)。本当に妊娠したくないのなら、しないようにする手段をいくらでも持っているのである。  それだというのに何ということであろうか。レイプのときの受胎率は通常よりも随分と高いのだ。レイプの直後、女はショックのあまり妊娠した子を流産することもあるだろう。そういうことがあってもなお通常の受胎率よりも高いのである。これはもう女は、もし不幸にもレイプされてしまったなら、そこで一気に態勢を逆転し、むしろその機会を利用しようとする場合さえあるのではないか、とでも思わざるを得ないのである。もちろんそれは無意識のうちに、だ。  とはいうものの、レイプのときに妊娠する確率が高いのは、一つには性交排卵と呼ばれる現象があるからである。W・イエックルという医師が、第二次世界大戦直後のドイツでレイプされ妊娠した女性五四三人のデータを調べたところ、一五四人(二八・四パーセント)が何と排卵後から月経までの時期に妊娠したものだった。排卵を終えた後の最も�安全�とされる期間に、である。これはどう考えてみても性交《セツクス》によって排卵が引き起こされたのであり、レイプにはどうやら排卵を強く誘発する効果がある模様なのである。とはいえ普通の性交《セツクス》に関してみても、排卵の時期は性交《セツクス》によって影響を受ける。排卵するはずのない時期にも性交《セツクス》によって排卵が誘発されることがある。いわゆるオギノ式があまり完全な避妊法となり得ないのは、このあたりに原因があるのだと言われている。それに世の中は広いものでこんな驚天動地の事例さえ知られているのである。  ある女性は三人の子持ちである。彼女は三三歳のとき三人目の子を出産したが、何とその四カ月後に生まれて初めて月経というものを経験した。それまでは一切ない。ではどうして三人もの子を妊娠し、出産することができたのだろうか。これぞ性交排卵なのである。つまり彼女の子は、性交《セツクス》し、なおかつそれが引き金となって排卵した時にのみできているのだ。それ以外の時には排卵していない。従ってついぞその歳《とし》まで月経も来ることがなかったという次第なのである。  ネコ、ライオンなどネコ科、イタチ、フェレットなどイタチ科では交尾がなければ排卵は起きず、人間にもその名残りがあるということだろう。ミンク(イタチ科)は交尾の際に、オスがメスをレイプするが如《ごと》く傷つける。多くの場合首すじなどを咬《か》み、鮮血がほとばしる。それが排卵の条件になっている。  レイプが排卵を誘発する。それにレイプ男はターゲットとする女と日頃一緒に過ごしていないわけだから、彼の放出する精子の数は相当に多いだろう。しかしそれならばなぜ女はそれに本格的に対抗する──もちろん生物学的に対抗するわけだが──手段をとらないのだろう。本当に(生物学的に)嫌ならそうするはずである。女の技量をもってすれば、それくらいのことは簡単なはずではないか。いや、女は対抗しているが、それ以上にレイプ男の戦略が勝《まさ》っているということだろうか。それにしてもおかしい。女は、時にレイプによって妊娠する道を選んでいるとしか思えないのである。もちろんそれは無意識のうちにである。性交排卵は男によって引き起こされるだけではなく、女自身が引き起こしている……?  とまあこのように、かつてレイプについて考えた際、私の頭は大混乱、疑問符だらけの状態になってしまったのである。そこでいったんこの件については忘れることにした。忘れたままに何年もが経過した。  そして一九九五年のことである。縁あって『The Moral Animal』という本に出会うことになった(ロバート・ライト著、邦訳は『モラル・アニマル』、小川敏子訳、講談社、ちなみに監修は私)。著者のライトはアメリカの科学ジャーナリストである。何と彼はレイプが女《メス》の側の戦略でもあることを明言しているのである。  即《すなわ》ち、レイプによって少しでも妊娠する確率があるとすれば、女《メス》はそのルートを無意識のうちに利用しようとする。「腕のよいレイプ犯」を選び、「腕のよいレイプ犯」になるであろう息子を得ようとする行動を進化させるはずだ。その息子によって多くの孫を得る。そして抵抗するのは「腕のよいレイプ犯」を選び、「無能なレイプ犯」を避けるためなのだ、抵抗することで男《オス》にどの程度の意志力があるのかを試しているのだ、と。  とはいえそれは、タネを明かせばオランウータンについての議論なのである。オランウータンのオスはロングコールと呼ばれる大きな唸《うな》り声を発するが、それは数キロメートル四方にまで到達する。声の届く範囲が概《おおむ》ね縄張りで、中に数頭のメスとその子どもたちが暮らしている。各人は、母子を別とすれば単独行動で、メスはおよそ一カ月の月経周期のうち、発情した数日間に限りオスの元へと参上する。居場所はロングコールが頼りだ。このようにオスとメスとの交尾の成立は、ほとんどメスの申告に委《ゆだ》ねられている。そしてオスがメスを始終見張っていないというルーズな関係には、しばしば第三者が介入する。縄張りを持たない若いオスが縄張り内に侵入し、メスに交尾を迫るのである。レイプが発生するのはこういうときだ。  ライトはレイプについてのこの議論をオランウータンにのみ当てはめている。彼は人間のレイプに関してはソーンヒル夫妻と同じで、女にあぶれた男の戦略である、と男の側からの説明しか与えていないのである。同書のその他の部分を読むと、人間について実に過激に、皮肉たっぷりの見方がされており、そうしてみるとこの部分に限ってそういう発想しか得られなかったとはとても考えられないのだが。  ところが九六年のことである。私は驚くべき見解を発見した。またしてもR・ベイカーとM・ベリスなのである。彼らは一九九五年、二人の共著である『Human Sperm Competition』(Chapman & Hall)の中で、女にとってレイプはどういう意味を持つのかということをこう議論している。 [#ここから1字下げ]  もしそうすべき状況のもとでレイプをする男がいて、そうでない男よりもより大きな繁殖成功を収めるのであるとする。すると女は、レイプをする能力、そしていつそれを実行するのが有利かを判断する能力、の両方を兼ね備えた男と性交《セツクス》することでより多くの孫を得る(むろんそれは息子を通じてである)。そういう男を好む女は、そうでない女よりも平均すると多くの子孫を残すことになるはずである。  しかしながら女にとっての問題は、男がその好ましい能力を持っているかどうかをいかにして見分けるかである。その簡単な解決策が、女が男を実際にテストすることだ。レイプの能力だけでなく、いつそれを実行すべきかの判断力を男が持っているか、それらを試してみるのである。そのテクニックこそが男に抵抗することだろう。彼がレイプをしようとするその時に、少なくとも彼の攻撃性が自分に肉体的なダメージを与えるスレスレのところまで抵抗することなのである。 (筆者訳) [#ここで字下げ終わり]  なるほど、これで少しわかりかけてきた。昔から言うように、「嫌よ、嫌よも好きのうち」である。女は抵抗しつつもその実、男に本当にその意志と実行力があるのかを試すことがままあるのである。そのエスカレートした形がレイプというわけなのだ。レイプで女が抵抗するのは、実は男を試しているということなのである。なるほど、そういうことだったのか……。  しかしそうすると、である。一方で気になることもないではない。「嫌よ、嫌よ」のときの抵抗はごくごく軽いものだ。しかも女にとって相手の男は、ある程度懇意の仲である。ところがレイプのときの抵抗、レイプに対する恐怖、嫌悪《けんお》、レイプされるくらいなら死んだ方がましだというあの心理はあまりに極端ではないだろうか。異質でさえある。相手の男は顔見知りの場合も多いが、未知の男である可能性も少なくない。レイプのときの抵抗と感情は本当に「嫌よ、嫌よ」の延長上にあると言えるのだろうか。レイプのときの抵抗と「嫌よ、嫌よ」の抵抗とは別物ではないのか……。いや、それとも、そうではなくてやはりそれらは同じ質のものであって、極端に忌《い》み嫌う感情を持ってこそレイプの際に目一杯男に抵抗するだけの力が湧《わ》いてくる、そしてそれこそ「腕のよいレイプ犯」を選ぶためのとっておきの方法となる……?  もう何が何だかさっぱりわからない。誰か助けて! 私の頭は残念なことに今、また元の疑問符だらけの状態に逆戻りしてしまったのである。 [#改ページ]  女はなぜやせたいのか その恐るべき偽装[#「その恐るべき偽装」はゴシック体]  男が好きなのはマリリン・モンローのような女。バスト・ウエスト・ヒップにめりはりがあって見るからに女、私は女であります! 丈夫な子どもを産むことができます! と全身で主張しているような女である。男はとにかくバストが好きである。ヒップも好きである。好きで好きでどうしようもないらしいのである。当世の日本でモンロー型といえば、細川ふみえや雛形《ひながた》あきこといったところだろう。  ところがその彼女たちにとって不幸なことは、男たちの絶大な支持が得られる一方で、往々にして女には、特に若い女にはかたきのように嫌われてしまうということである(モンローは例外的だ)。もちろんそれは人気に対する嫉妬《しつと》からだろう。だが、それよりも女は、とにかくああはなりたくないと思っているからである。大きすぎる胸やヒップはダサイ。ヒップや太股《ふともも》が豊かではミニスカートもパンツルックも似合わないではないか。|不幸にも《ヽヽヽヽ》そういう体型に生まれた女は、むしろそれをコンプレックスに感じ、胸のめだたないような服を選んだり、前かがみになって歩く癖さえも身につけてしまうのである。  若い女が好み、ああなりたいものだと憧《あこが》れるのはオードリー・ヘップバーンのような女だ。スリムで華奢《きやしや》で中性的。女として本当に機能するのか、あんた、子どもは産めるんだろうね、とおせっかいなオバさんならつい口を滑らしそうな女である。試しに『an・an』や『Olive』のような雑誌をご覧になってみるといい。そこに登場するのは鉛筆のように細くて長い足、ぺったんこの胸やお尻の、少年と見紛《みまが》うばかりの中性的なモデルたちである。女として最も輝くはずの時期の女が、そろって憧れる姿がそれなのだ。その姿に近づくために決死の覚悟で取り組むのがダイエットというわけで、一キロ減った、いや一・五キロも増えたのだ、と実にどうでもいいようなことが話題になる。それらが人生の最重要の課題であるかのように彼女たちには捉《とら》えられてしまうのである。  男と女で、望む体型になぜこうも違いがあるのだろう。私は不思議で不思議でならなかった。  男の方は実に単純明快である。男が望むのは、よく妊娠しそうな女、妊娠して子を無事出産し、よく乳も出そうな女である(とはいえ実際には乳房の大きさと乳の出の間にはほとんど相関がないことがわかっている)。そういう女を選べば自分の遺伝子がよく残っていく。男が女にそういう体型を望むのはごく自然なことなのだ。いやはや、男というのはわかりやすくてよろしい。  わからないのは女の方である。女が望む体型は男が最も嫌うはずのものではないか。妊娠しそうにない体型、難産になりそうな体型、乳もあまり出そうにない体型……。第一、それは自分自身が遺伝子を残すうえでも不利ではないのか。どうして男と女でそんな相反する結果になっているのだろう。男に嫌われる、自分にとって不利となる体型を女が望む。いや、望むなんてものじゃない。熱望し、ほとんど病気といっていいくらいにこだわる。そんなバカな話があるものだろうか。  しかし、どうだろう。逆に考えれば女がそれほどまでにこだわるということは、それが女自身の遺伝子を増やすことに実はどこかで大いにつながっているからこそではあるまいか。男に敬遠され、一見子を産むのに不適格と思われる条件を補って余りある利益がある。そうでないとしてどうして、そんなおかしな性質が進化してきたのだろう。その謎《なぞ》を解き明かす手掛りを、私は今ようやく掴《つか》んだところである。  健康で何ら異常のない女が、しかも月経はいつも通りきちんきちんと来ているというのに、月によっては排卵だけが省略されているという事実をご存じだろうか。この恐ろしい現象は、むろん本人の与《あずか》り知らぬ、無意識の部分で起きている。そのうえ月経周期は、たとえ周期が一定していたとしても、毎回毎回微妙にその内容が変化している。月経から排卵までの期間、排卵期の日数、排卵から月経までの期間などがそれぞれ伸び縮みしている。排卵から月経までの日数は一二日から一五日くらいであるのが普通だが、それが一〇日以内になってしまうとその月の排卵期は妊娠の可能性のないものだったということになるという。結局そんなこんなで健康な女でも、実際に妊娠の可能性のある月経周期は二回に一回くらいの割合でしか存在しないのである。毎月受胎可能であるというわけではない。これまで見てきたように女の体は、基本的には妊娠しないようしないようにとできている。また女はそうしようともしている。一つには男に簡単に受精させるより、試練を与える、あるいは男どうしで|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》をさせるためだ。性交《セツクス》だけさせておいて妊娠せず、贈り物などの投資をたっぷりと引き出そうとする狙《ねら》いもあるかもしれない。そしてそれらどの段階にも先駆けて女が採っていると思われる妊娠しないための対策が、排卵しないなど、とにかく体を受胎しない状態にするということなのである。  健康な女ですら常に受胎可能というわけではないのだから、不健康、というと語弊があるが、何らかの理由でひどく体の脂肪を失っている女ともなるとさらに受胎率が下がってくる。受胎率は体重に占める脂肪の割合に大きく左右されるのである。バレリーナや女子スポーツ選手、やせるためにダイエットをしている人などの受胎率はそんなわけで相当低下しているのだという(ちなみに初潮が始まるのには女の子の体脂肪の割合がある値を越えることが一つの条件になっている)。さらに神経性の食欲不振(いわゆる拒食症)という病的な状況によって体重が激減すると、月経が止まってしまうことがある(最悪の事態では死に至る)。この症状は男には稀《まれ》で、発生するのはもっぱら若い女である。  つまり、こうしてみると少し謎が解けてきはしないだろうか。なぜ女がやせたいと願うかだ。やせると受胎率が下がる、つまり避妊ができるのである。女は元々妊娠しないようしないようにと企てている。ダイエットなどでやせることはそれを一歩進め、積極的により完璧《かんぺき》に避妊しようとする試みではあるまいか。  むろん女本人はそんなからくりなど知る由《よし》もない。月経は正常に来るし、表面的にも何ら不都合は生じない。ただ、やせたいと願い、ダイエットしてやせる努力をする。そうすると自《おの》ずと避妊することになるという次第なのである。拒食症のような症状は、やせたい願望が強すぎ、その試みと結果が少し極端に走ってしまったということかもしれない。 「若いのにダイエットするなんて……」「そんなことしてたら体に悪いでしょ。生理が止まっちゃうわよ」などと親たちは忠告するわけだが、娘たちはまさにそれが体に悪いことだからこそ実行する。彼女たちがまだまだ妊娠するわけにはいかない年頃だからそれを行なうのである。自分の若い頃を思い出してみてもそうなのだが、若さというのはなぜか不健康なことを好むのである。コーヒーをブラックで何杯も飲む、まともな食事をとらないでお菓子ばかり食べまくる、特に目的もなく徹夜をする……。そんな体に悪いこと、今ならお金をもらったってご免|蒙《こうむ》りたいところだ。しかしそうするとあの無茶な行ないは、体を不健康にし、受胎率を下げ、避妊しようとする試みだったのだろうか。  避妊、避妊というが、どうしてそれがそんなに重要か。避妊ばかりしていてはたして自分の遺伝子が残せるのか、とお考えだろう。大丈夫である。避妊という言葉がよくないかもしれない。要はバース・コントロールなのである。女が自分にとって最も都合のよいタイミングで、たとえば健康状態のよいときとか、もし子を産んだら相手の男がちゃんと面倒を見てくれそうであるときとかに、しかも自分が望む男の子を産むということなのである。ダイエットによる避妊はそのチャンスが訪れるまで続ける。いつまでたっても産まないということではないのだ。とすればそれは遺伝子のコピーを残しにくいということではないだろう。ただやみくもに妊娠するよりはよほどいいし、むしろ最大効率で遺伝子を残す方法だ。女はその気になりさえすればたちまちのうちに太ってしまうことが可能だ。妊娠すべきときにはちゃんと太り、丈夫な子を産むこともできるのである。  女がやせることで確かにバース・コントロールをしていることは、たとえば若い頃にやせたい、やせたいと願いダイエットし、事実やせていた女が、結婚するや否《いな》やみるみる太ってしまうような現象に表れている気がする。幸せ太りである、結婚して気が緩んだのだ、と世間は形容するわけだが、その意味するところは彼女のバース計画が次の段階に入ったということではないだろうか。妊娠してもかまわない、いよいよ子を産む段階に入ったのである。幸福感や気の緩みは外界からのゴーサインに対する反応である。また実際に太るための心理的方法である。逆に結婚前やこれぞと思う男をつかまえるまでの女の緊張感、やせたいという強い願望は妊娠しないための心理であるのだろう。女の体は実にセンシティヴに、実に巧妙にできているのである。  それにしてもこのダイエット=避妊説が本当であるのなら、やせてバース・コントロールしようなどということは、男からすればもっての外、随分とずるいやり方である。この「ずるい」ということだが、いやこの例は「ずるくない」方のものだが、こんな話がある。  結婚を間近に控えた三浦友和と山口百恵が恩人である渡哲也氏宅を訪れた。食事やデザートが次々出されたが、百恵さんは何でもパクパク残さず食べてしまう。その見事な食べっぷりを見て渡氏の言った一言が、「三浦君、よく食う女は信用できるよ」、だったという。  よく食べる、この場合なら人前でもパクパクよく食べるのは、本当はよく食べるのにしおらしく少食のふりをするというごまかしがないことで、よく食べる女は裏表がないという意味だとその話を知ったとき解釈した。が、そういうことではないのかもしれない。よく食べる女というのは、やせて避妊しようなどというズルイことを企《たくら》んではいないのである。そういう意味で信用できる。今はそんなふうに思えてくるのである。渡氏はそんな理屈など知る由もないが、とにかく女の信用度というものが食べっぷりを通して測ることができる、とおそらくその豊富な経験から体得していたのであろう。そこで後輩たる三浦君に、君の将来の奥さんは信頼に足る人物だよ、とお墨付きを下したわけである。なるほどそれは、その通りであったようだ。  スリムな女が美しいとみなされたり、女がやせたいと願うようになったのはごく最近のことだ、ここ三〇〜四〇年くらいの傾向ではないか、そんなことは人間の歴史のうえで過去一度たりともなかった、だいたいあのスーパーモデルとやらはありゃ何だ、あれで鳥ガラのスープでも作ろうっていうんかい、スリムな女が美しいだなんてどこかおかしい、それはこの現代社会が病んでいることの何よりのあかしではないか、女がやせたいと願うのは避妊のためではなく、単に社会的|病《やまい》の反映でしかないのではないか……、というようなことをもしかしたらお考えかもしれない。  確かにそうだ。二〇世紀初めの無声時代の映画などを見ると、女優はびっくりするほどデブである。宮廷画家の描く、一七世紀や一八世紀のイギリスやフランスの王妃や貴族の夫人も、まず間違いなく豊満な肉体の持ち主である。ギリシアやローマ時代のヴィーナス像、日本や中国の昔の婦人像も同様だ。なるほど、やせていることが、それも昨今のモデルさんみたいにやせていることが美であったなどという時代は過去に一度たりともなかったに違いない。しかし現代のスリム志向は、必ずしも時代の病のせいばかりとは言えないのではないだろうか。現代とは、それが社会的に病んでいるかどうかは別として、過去のどの時代よりも栄養的に富んだ時代なのである。つまり、こういうことだ。  過去の人々は、押しなべて栄養不十分の状態にあった。特権的な階級の人々とてそれは例外ではなかったはずである。お腹《なか》いっぱい食べられるにしてもその内容は、たとえばイモばっかり食べるというようなもので、栄養的に見て十分ではなかった。人々はやせているか、太っているにしろ栄養の偏りによる太り方で、いずれにしても女は妊娠しにくい状態にあったのである。だから、|わざわざやせて受胎率を下げる《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》などということをする必要はなかった。  ところが現代は栄養過多の時代である。普通に食事をしていると、たとえそんなに太っていないとしても、妊娠しすぎて困ってしまうほどになる(現代の女たちはかなり厳重にバース・コントロールしているため妊娠しにくいような印象を受けるが、実は相当に妊娠しやすい状態にあるはずなのである)。そこで女はやせようとする。病気の一歩手前と思えるほどやせて、ちょうど女の望む受胎率に達するのである。誰かがテレビで言っていたが、栄養的に豊かになった国ほどやせていることが美とみなされ、女はやせようとする。栄養状態と理想とされる体型とはなぜか正反対の関係にあるのだ、と。その人は、栄養に富んだ国では太るのが当たり前だからやせていることに価値が見出《みいだ》される、みたいなことを言いたげであったが、そうではあるまい。その本質は今ここに示したように、栄養が十分であるからこそ受胎率を下げる必要がある。だから女はやせなければならないということなのである。  やせることが人生に勝利することであるかのように今の女の子たちは考えている、と多くの大人たちは警鐘を鳴らす。が、彼女たちの心理はごく自然なものだ。避妊すること、いつ誰の子を産むかのバース・コントロールをすることは女の一生に関わる大問題である。もしやせてそれに成功するとすれば、それは人生に勝ったも同然ではないか。女がやせることは、現代では確かに人生に勝利することにもなっているのである。 [#改ページ] 第三章 形と大きさの進化論[#「形と大きさの進化論」はゴシック体]  真相は�藪《やぶ》�の中 睾丸《こうがん》は語る[#「睾丸《こうがん》は語る」はゴシック体]  コンラート・ローレンツには随分理想主義的なところがあって、彼は彼の愛するガンたちが、実は一夫一妻制を厳密には守っていないのだと知ったとき、ひどく落胆してしまった。  ガンの夫婦は一度決めたつがいの相手を何があっても変えようとはしない。パートナーに死なれた片われは深い悲しみに襲われ、その後しばらくは未亡人、あるいは男ヤモメとなって暮らす……。確かにそれはそうなのだが研究が進むにつれ、その殊勝な態度は多分に見せかけのものであることがわかってきたのである。──凄《すさ》まじい浮気の世界。  だが、ガンも所詮《しよせん》は鳥である。鳥といえば浮気天国だ。何もガンだけが特別というわけにもいかないのである。そんなわけで、愛するガンの実態を知って落ち込んでいるローレンツに向かい、ある女性の助手はこう言ってなぐさめたのだという。 「ガンだって所詮は人間にすぎないじゃないの」(『攻撃』、K・ローレンツ著、日高敏隆他訳、みすず書房)  ローレンツはガンの他にもいくつかの鳥に思い入れを持っている。たとえばコクマルガラスである。コクマルガラスは体重二百数十グラム。ハトほどの大きさで、首から胸にかけて白っぽい毛が混じるのが特徴である。樹《き》の洞《ほら》や洞穴などにつがいごとに巣をつくって繁殖する。賢いカラスの中でも特に利口であることが知られている。しかしあるときローレンツは、慣れ親しんでいるコクマルガラスの一団に襲われるという恐怖を体験した。利口であるはずのコクマルガラスがなぜ? 理由は彼が、ポケットから黒い水泳パンツを取り出したことにあった。以前、カメラからフィルムの黒い包み紙を引っ張り出したときにも似たようなことがあったのだ。コクマルガラスはこの、まるで巣からヒナを盗み出そうとしているかのような行動に極めて敏感に反応してしまったわけである。ローレンツはこれらの行動を賢いかどうかとは関わりのない、「盲目的、反射的」な反応だとしている。  それにしてもこのコクマルガラスまでもが浮気者だと、それも並大抵の浮気ではないとわかったら、ローレンツはますますがっかりすることになっただろうに。彼はついぞそれを確かめることはなかった。鳥は哺乳類《ほにゆうるい》などに比べると個体差が小さく、各々の鳥を識別することが難しい。そのうえ動きは俊敏だ。メスの交尾相手が亭主か浮気相手かは、足輪でもつけない限りなかなか区別が困難なのである。それはローレンツとて例外ではなかっただろう。彼にとって幸いなことだったのだが。  とはいえ観察しなくても、ある鳥が浮気者かどうか、|EPC《ウワキ》の程度がどれくらいひどいのか、我々はだいたいの見当をつけることが可能だ。体のある部分に着目すればよいのである。  ここに興味深いデータがある。ツバメの尾羽の長さや対称性《シンメトリー》の研究で名高い、デンマーク出身の鳥学者、A・P・メラーはある論文の中で、二四七種もの鳥の体重と睾丸の重さ(左右の合計)、婚姻形態、繁殖用の巣の密集の度合い、メスの交尾頻度、オスによるメスのガードの度合い、父親によるヒナの世話の度合い、といったことについて一覧表を作り、種ごとの比較検討をしている。  鳥のおよそ九割は一夫一妻の婚姻形態を持つと言われ、この二四七種もたいていは一夫一妻である。しかし面白いのは非常に近縁のカラス四種が比較される箇所である。ミヤマガラス、コクマルガラス、アメリカガラス、イエガラス。いずれも一夫一妻の婚姻形態で、オスによるヒナの世話の度合いも同程度(〇から八までの九段階評価の四)なのだが、その他の点ではっきり二つのタイプに分かれてしまうのである。  体重の割に睾丸が大きく、繁殖期のつがいが密集して巣を作る、そしてメスが頻繁に交尾し、オスがメスをあまりしつこくガードしないというタイプ。体重の割に睾丸が小さく、繁殖期のつがいがバラバラにしか巣を作らない、メスがあまり頻繁に交尾しない、しかしオスはメスをしっかりガードするというタイプである。前者にはミヤマガラスとコクマルガラスが、後者にはアメリカガラスとイエガラスが相当する。  ミヤマガラスの体重が五三四グラム、睾丸が一七・六七グラム(体重に占める睾丸の割合は三・三パーセント)、コクマルガラスの体重が二三四グラム、睾丸が五・一〇グラム(同じく二・二パーセント)であるのに対し、アメリカガラスの体重は七五六グラム、睾丸は一・一四グラム(〇・二パーセント)、イエガラスの体重は二九〇グラム、睾丸は一・九九グラム(〇・七パーセント)といった塩梅《あんばい》である。  なぜこんなにも睾丸の発達具合に違いがあるのだろう。何が原因でこうなるのか。ただ、動物の大原則として言えるのは、オスたるもの卵をめぐるオスどうしの精子の争い、つまり|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》が激しい状況にあればあるほど睾丸が発達するよう進化が起きるということである。|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》に勝利するためには頻繁にメスと交尾しなければならない(その相手は妻も含めてである)。しかも一回の射精精子数をできるだけ多くする必要がある。自然、精子の製造元である睾丸を発達させ、能力の向上をはかる必要が生ずるわけだからである。  四種のカラスのうち、ミヤマガラスとコクマルガラスはメスが頻繁に交尾し、オスがメスをあまりガードせず、巣が密集して隣の巣までの距離が近いという状況にある。メスが頻繁に交尾するとはいうものの、これらの交尾がすべて夫婦間のものとは限らない。いや、そもそも夫婦の間でしか交尾が起こらず、なおかつそれが頻繁であるなどという現象は考えにくいのだ。これらメスの交尾の中には相当な回数の|EPC《ウワキ》が含まれているはずなのである。しかしそうしてメスが頻繁に|EPC《ウワキ》するということは、彼女の夫もまた|EPC《ウワキ》をするために出かけて行っているということである。こうしてまずこれらの社会では、|EPC《ウワキ》が盛んであるという状況が発生する。そしてオスがメスをあまりガードしないのは、そもそもメスをガードしていては自分が|EPC《ウワキ》に出かける暇がなくなってしまうからだろう。これらのカラスのオスはガードについては半ば諦《あきら》めた。|EPC《ウワキ》に精を出すことに決めたのである。但《ただ》し、留守中に起こったであろう事態に対しては頻繁な交尾によって埋め合わせをする。こうしてこれらカラス社会では交尾そのものが頻繁になった。オスは睾丸を発達させてきたという次第である。  しかし、そもそもなぜ|EPC《ウワキ》が盛んかと言えば、その根本原因は互いの巣が接近しすぎていることにあるのである。隣の�家�が近いということは、勢い|EPC《ウワキ》の機会を提供する。隣の奥さん、ご主人のことが気になってしまう。チャンス到来とあらば、すかさず飛んで行くことも可能だ。同じ浮気ガラス派でもコクマルガラスに比べてミヤマガラスの方が睾丸の割合が大きい、つまりより|EPC《ウワキ》が盛んであると想像されるが、面白いことに巣の密集具合もそれに対応している。ミヤマが一本の木の上にびっしりとコロニーを作るのに対し、コクマルは樹の洞《ほら》や洞穴の中につがいごとに、少なくともミヤマよりは間隔を空けて巣を作るのである。  一方、睾丸の小さい、アメリカガラスとイエガラスではメスがあまり頻繁には交尾せず、オスがメスをしっかりガードし、巣は分散して作られる。これらのカラスではおそらく、メスがあまり|EPC《ウワキ》をしないのだろう。ということはオスも|EPC《ウワキ》をあまりしないわけで、オスはどちらかといえばメスをガードする道を選んでいる。ガードしているから妻に対してそう頻繁に交尾する必要がない。交尾頻度自体も少なく、よって睾丸も発達してこないという寸法なのである。しかしそもそも、なぜこれらの種で|EPC《ウワキ》が盛んでないかといえば、つがいが巣を分散させて作っているからなのである。アメリカガラスもイエガラスも、つがいがそれぞれ独自の、少なくとも直径数百メートルにも及ぶ縄張りを持っている。そしてカラスが巣を分散させて作るか否《いな》かは、どうやら捕食者に対する防衛の問題に端を発しているようである。  しかし驚いたことに人間でも、似たような例が見つかっている。�つがい�と�つがい�の距離が近いかどうかによって|EPC《ウワキ》の頻度が違ってくる(!?)のである。  戸籍上の父親と生物学上の父親とが一致しないケースがどれほどあるか。といっても前夫との間の連れ子というようなケースは別で、女の浮気の結果の子が内緒で、あるいはもうバレてしまってはいるが、とにかく実の父親ではない男にどれほど育てられているか、ということが調べられたことがある。たいていの場合それはせいぜい数パーセントどまりであった。ところがイギリス北西部と南部の|高層アパート《ヽヽヽヽヽヽ》では、それぞれ二〇〜三〇パーセントと約三〇パーセントという結果だったのである。いやはや、何とも……。  フランスでも事情は変わらない。過去一年間に二人以上のパートナーと交渉を持ったかどうかという質問に対し、田舎では男の一〇・四パーセントが、女の四・一パーセントがイエス、いやフランスだからウイと答えた。ところが住宅が建て込んでいるパリなどでは、男の一八・二パーセントが、女は一〇・四パーセントが「ウイ」であったのである……。  カラス四種と呼応するかのように興味深いのは、大型類人猿三種、つまりチンパンジー、オランウータン、ゴリラ、と人間とを睾丸について比較することである。それぞれの種のオスの平均体重と睾丸の重さ(左右合わせて)は以下の通りである。  チンパンジー 体重四四・三kg/睾丸一一八・八g  人間 体重六五・七kg/睾丸四〇・五g  オランウータン 体重七四・六kg/睾丸三五・三g  ゴリラ 体重一六九・〇kg/睾丸二九・六g    (データはA・H・ハーコートらによる)  チンパンジーは体が一番小さいのに睾丸は群を抜いて大きい。人間とオランウータンは、人間の方がやや上回っているもののなかなかいい勝負。そしてどうやらゴリラは、体は大きいのに睾丸は随分と遠慮がちのようである。  睾丸対体重比をパーセントで表すと、こんな結果が導かれる。  チンパンジー 〇・二七パーセント  人間 〇・〇六パーセント  オランウータン 〇・〇五パーセント  ゴリラ 〇・〇二パーセント  さらに一回の射精あたりの精子数ということになると、  チンパンジー 六億三〇〇万個  人間 二億五三〇〇万個  オランウータン 六七〇〇万個  ゴリラ 五一〇〇万個    (データはR・V・ショートによる)  という結果となるのである。チンパンジーが他を圧し、ゴリラが最も控え目であることに変わりはないが、ここへきて人間とオランウータンとの間に大きな開きが生ずる。人間には幾分チンパンジーに似た事情があることがうかがわれるのである。それにまた睾丸がどういう状態にあるかということに注目すると、チンパンジーと人間の場合は陰嚢《いんのう》内にある、つまり体から独立し、ぶら下がっている状態にあり、しかもそこに毛が生えていないのに対し、オランウータンとゴリラのそれは腹腔《ふくこう》内に隠れるというように明らかな違いがあるのである。チンパンジーと人間で陰嚢なるものが発達したのは、一つには|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》が激しいために、精子をより長い期間生き長らえさせておくべく体温より低い箇所を作る必要が生じた、ということであるらしい。  睾丸の大きさにはなぜこのような開きがあるのだろう。むろんそれは|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》の観点から説明することができるのである。  チンパンジーは複数のオスと複数のメス、そして子どもたちから成る数十頭〜百頭くらいの集団で暮らしている。オスとメスには特定の関係というものがなく、メスは発情すると「来る者は拒まず」方式でオスを受け入れる。メスの交尾回数には一日五〇回という大記録さえ存在するのである。彼女たちの体の中では激烈な|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》が起きている。オスは当然、精子製造能力を高める必要に迫られる。睾丸はどんどん発達する方向へと進化を遂げてきた。  ゴリラは、一頭のシルバーバックと呼ばれるオスが複数のメスとその子どもたちを引き連れ、ハレムを形成している。メンバーは常に行動を共にする。食べるのも寝るのも一緒である。しかもハレムの中にはライヴァルオスはいない。つまりゴリラのオスには他のオスが介入するという、|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》の問題がほとんど存在しないわけである。とはいえそれでおしまいというわけはなく、代わりに問題となってくるのは、ハレムの防衛である。ハレムを持たない若いオスがメスを奪おうと虎視眈々《こしたんたん》と狙《ねら》っている。襲撃は時、場所を選ばずである。防衛は主に腕力が物を言う。こうしてゴリラのオスは、睾丸を発達させる代わりに体を発達させてきた。  人間とオランウータンの社会はどうだろう。どちらもチンパンジーのような乱婚的なものではない。ゴリラのようにオスがメスを四六時中監視し、ガードするというものでもない。人間は一夫一妻、あるいは一夫多妻の婚姻形態を持っており、男と女には世間に認められた特定の関係というものがあるのである。しかしその一方で、しばしばイレギュラーな関係というものも存在する。  オランウータンは一頭の優位オスがある一定の地域を支配し、その中に数頭のメスとその子どもたちが暮らしている。ところが彼らの行動は母子を別とすれば基本的に単独。優位オスとメスとはおよそ一カ月をサイクルとするメスの月経周期のうち、発情した数日間を共に過ごすだけである。あとは各自バラバラだ。  発情していない期間であればガードはしなくても構わないのではないか、と考えたくなるが、物事はそう単純ではない。そもそも発情と非発情のはっきりした境目というものはなく、妊娠の確率はおそらく連続的に変化する。それにまた例の交尾排卵という現象によって、非発情期に妊娠する可能性だって少なからずあるだろう。結局こうした間隙《かんげき》をつき、|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》の発生する余地が出てくる。縄張りを持たない渡り者のオスが、嫌がるメスに交尾を強要したりするわけである。  人間にしてもオランウータンにしても、オスとメスとに一定の関係がありながら他方ではそうではないという部分が存在する。そこに|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》が発生するわけである。それらの事情は、睾丸の対体重比や射精精子数がチンパンジーとゴリラの中間であるという現象によく反映されている。そして人間がオランウータンよりもはるかにチンパンジー寄りなのは、オランウータンのレイプなどが何といっても稀《まれ》で、非排卵期に行なわれる現象であるのに対し、人間の|EPC《ウワキ》は排卵期、非排卵期を問わず行なわれる、いや、それどころか女はむしろ排卵期にこそ|EPC《ウワキ》をする。そういうチンパンジー的部分に一因があるのだろう。人間は|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》においてはチンパンジーに次ぐ存在なのである。  |精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》は睾丸の発達を促す。ということは逆に、睾丸の発達具合からその動物の|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》の歴史、現在の|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》の発生状況を推し測ることができるだろう。それは種の間だけでなく種内の、人間で言えば人種ごとの違いについても議論できるはずである。  ある調査によると、コーカソイド(白人)の睾丸の重さは左右合わせて四二・〇グラム、モンゴロイド(香港生まれの中国人)は一九・四グラムだった。残念ながらニグロイド(黒人)についてのデータははっきりしたものがないのだが、少なくともコーカソイドはモンゴロイドの二倍もの大きさの睾丸を持っていることになる。  さらに一日当たりの精子製造能力ということになると、ある人はコーカソイド一億八五〇〇万〜二億五三〇〇万個、モンゴロイド八四〇〇万個と見積もり、別の人はコーカソイド三億個と見積もっているのである。睾丸の大きさから単純計算すれば、コーカソイドはモンゴロイドの二倍でいいはずなのに、である。彼らはどうやら大きさだけでなく、性能においてまでも我々を凌駕《りようが》しているらしい。  しかし、どうだろう。裏を返せばそれは、コーカソイドがモンゴロイドよりも、より|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》の激しい社会を形成し、生き抜いてきたこと、今もおそらくそうであろうということである。実態はどうあれ、そう推定されるのである。  とはいうものの、ある韓国の研究者の調査によると、韓国人は白人に負けていないという。韓国人の睾丸の大きさはアメリカ白人と大差ないと出ているのである。同じモンゴロイドでも韓国人だけは別なのだろうか、それともそれは白人に対する対抗意識による見積もりの過剰なのか……。いずれにしてもこういう問題は微妙だ。何が本当なのかはわからない。真相は依然|藪《やぶ》の中、いや、茂みの中に隠れたままなのである。 [#改ページ]  男がペニスにこだわる理由《わけ》は サクション・ピストン仮説[#「サクション・ピストン仮説」はゴシック体]  出版されてもう三〇年以上にもなるが、名著『裸のサル』を、著者であるデズモンド・モリスはこんな文章でスタートさせている。 [#この行1字下げ] 現在、世界には全部で一九三種のサルとヒトニザル(猿人類)がいる。その一九二種は体が毛でおおわれている。例外なのは自称ホモ・サピエンスという裸のサルである。この奇妙な、そして高度に繁栄した種類は、たくさんの時間をかれの高尚な行動契機の探究に費やす一方、かれの基本的な行動契機を故意に無視することにおなじぐらいの時間を費やしている。かれは、霊長類中最大の脳をもつことを誇っているが、かれのペニスもまた最大であることはかくしたがる。かれは卑怯《ひきよう》にも、この名誉を巨大なゴリラにおしつけようとするのである。かれは、音声による意志の伝達のきわめて発達した、ひどく探索的な、殖えすぎたヒトニザルである。今やかれの基本的な行動を検討してみるべきときであろう。    (日高敏隆訳、河出書房新社)  先制パンチである。類人猿と比較した人間の特徴を、体毛を失ったことと音声言語、脳の発達であるとする。それとともにペニスの発達を挙げているのである。�高度�で�高尚�であるはずの人間が、ペニスだけはデカい。モリス流発想のさっそくのお披露目となるのだが、しかしこれはむろんジョークなどではない。人間のペニスがどの類人猿にも増して大きいことは事実だ。それは実のところ人間の性行動、婚姻形態、ひいては社会構造にまで関わってくる大問題なのである。  オーストラリアはモナーシュ大学の教授で、王立協会特別会員でもあるR・V・ショートという生理学者が調査したところによると、人間のペニスの長さ(もちろん膨張時)は平均一三センチメートルだった。異議のある方もない方も、とにかくショートによれば一三センチメートルなのである。  一方、チンパンジーは八センチメートル、オランウータンは四センチメートル、そして巨根伝説を持つゴリラは何とたった三センチメートルである。ゴリラの研究者が彼らの交尾時間を測ろうとしたが、あまりにペニスが小さいためいつ挿入したかがわからず、彼は結局、交尾姿勢をとっていた間をそれとみなしたというほどである。体に対する相対的な大きさということでは、ゴリラのそれはまた一段と小さいことになるだろう。それに人間のペニスは長さのみならず、太さにおいても他を圧倒しているのである。  人間のペニスは、形もまた非常に変わっている。皆さんご存じの通り、ある種のキノコのような形である。亀頭と呼ばれる先端の皮膚は特別柔らかでスムーズ、どんな動きにも対応できる余裕を持っている。しかもペニスの全体は日本刀のようなそりを帯びる。  チンパンジーだとこうはなっていないのである。彼らのペニスは言わばきり状で、先端に近いほど細く尖《とが》っている。オランウータン、ゴリラには亀頭があるものの、人間ほどにはっきりしたものではない。何といっても亀頭が発達し、ペニスの全体が曰《いわ》く言い難い雰囲気を放っているのは人間なのである。ペニスの像がある種のご神体として祀《まつ》られたりすることがあるが、それはペニスの持つあの不思議な魔力のゆえだろう。人間のペニスは何か特別なものを感じさせるのである。  人間のペニスはなぜかくも長く、太く、ヘンな形になってしまったのだろう。モリスによれば、それは男と女が互いの絆《きずな》を強めるため、特に女が男を忘れ難く思うようになり、別の男との情事に走らなくなるようにするために、男が発達させてきたのだという。  人間の祖先が狩猟採集生活を始めたとき、そこで初めて体験したライフスタイルは、男と女がしばし別れ別れになって生活することだった。男は狩りに出かけ、女は家に留まる。しかし、女は時として夫の留守中に浮気をする。『マディソン郡の橋』ではないが、道をきくために立ち寄った男がついでにしばらく居座っていくなどということも珍しくはなかっただろう。そういう事態が発生しないようにするためにはどうすればよいか。それは、男がペニスを巨大化させて女により大きな快感を与える、自分との性交《セツクス》の味を忘れられないようにすることなのだ。こうしてペニスの巨大化が始まった。ペニスのより大きい男は妻を寝取られる危険が少なく、自分の遺伝子をよりよく伝えることができる。むろん彼の�巨大ペニス遺伝子�もよく伝わる。こうしてペニスは、どんどん大きくなる方向へ進化したというわけである。  モリスの説は人々の直感によく訴えるように思われる。男の中には、「このオレさまのペニスで女はヒーヒー言って喜ぶのさ」と内心で自負している男も少なくはない。ペニスの大きい男はそれを自慢にこそ思え、コンプレックスに思うことはないのだ。ペニスは男らしさのシンボルなのである。  しかし疑問に思うのは、大きいペニスの方がはたして、本当に女に大きな快感を与えるのかということである。女の性感帯はクリトリスと膣《ちつ》の入り口付近であり、少なくとも医学的には膣の奥ではないのである。性感帯に与える刺激という点からすると、必ずしもペニスの大きさは関係ないのではあるまいか。それどころか大きすぎるペニスは、膣を傷つける恐れすら出てくる。そしてペニスの大きさと快感との間にほとんど関係がないことのダメ押しとなるのは、女は男のヒップにこそ関心はあるものの、ペニスにはあまり興味がないという事実である。  あるアンケートによると、男のヒップに関心があると答えた女は三九パーセントもあった。ところがペニスについてはわずか二パーセントだったのである。それは決して女の恥じらいのせいではない。恥も外聞もかなぐり捨てた、そして男性性器の掲載をはばからない外国の女性用男性ヌード写真集で幅を利《き》かせるのはやはりヒップで、ペニスではないのである。ペニスの大きさは、それによって女を満足させることができるという、男の自己満足なのである。モリスは、他ならぬ男の直感によってこの考えを引き出してきたのかもしれない。  モリスとよく似た考えは、その後多くの人々が提出するところとなっている。いずれも�ペニス信仰�によるものだ。たとえば、大きいペニスは女を喜ばせる、とりわけ長いペニスは様々な体位をとることを可能ならしめるから、ペニスは大きく、長くなってきた──。  大きいペニスが必ずしも女を喜ばせるわけではないが、はたして体位のあれこれは女を喜ばせることになるのだろうか。いや、喜ばせたとしよう。それがその男の遺伝子のコピーが増えることにつながるのか。たとえば長いペニスのおかげで何十もの体位をとることのできる男がいて、それがために女にモテモテであるとする。だが問題は、女はそういうことで最終的に男を選ぶのかということである。女が男に求めるものはもっと別なこと、つまりその男との間に生《な》すことになるかもしれない子の生存やその子の将来の繁殖に関わるようなことではないだろうか。女がたとえ体位の変化を喜んだとしても、結局選ぶのは様々な体位をとることができるペニスの長い男ではないのである。  ペニスが他の男に対して攻撃的なディスプレイをする。大きいペニスは他の男を威嚇《いかく》し、女の防衛のために役立つ。だからペニスは巨大化してきたのだという考えもある。しかしペニスが本当に威嚇のために役立つのかというと、はなはだ疑問だ。そもそも人間はペニスを衣服で隠しているのである。ほとんど裸に近いような格好で暮らしている人々にしても、最低限ペニスケースだけは着けている。それは太古の昔からの伝統だろう。人間のペニスが威嚇に役立つとは、ちょっと考えられないのである。  その他、大きなペニスが女を惹《ひ》きつけるからという説もある。確かにチンパンジーのオスなどは求愛の手始めとしてまずペニスを勃起《ぼつき》させる。左右に素早く振り動かすこともある。ペニスはメスの注意を呼び起こすのに威力絶大である。ところが男にとって幸か不幸か、人間の女はペニスにあまり関心がないのである。この説もまた、否定されることになるだろう。  人間のペニスはなぜ巨大化したのか。古典的なペニス信仰説とは全く違う観点を打ち出したのは、R・L・スミスという昆虫学者である。本書では既にマスターベーションの件《くだり》で、男のマスターベーションが精子の貯蔵寿命と関係があるのではないかと指摘した人物として登場している。彼はコオイムシの交尾行動の研究で非常に有名な人だ。コオイムシは水生昆虫の一種で、子を背負うからコオイムシという。メスがオスの背中に産みつけた卵をオス自らが世話をする。  スミスは|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》の視点からペニスの巨大化を説明する。即《すなわ》ち、長いペニスは長いだけに精液をより遠くまで飛ばすことができる、輸卵管の奥の方に位置している卵のより近くへと精子を到達させることができ、他の男との競争に打ち勝つことができるのだ、と。  これで考えは大幅に前進する。ペニスを男のシンボルとして過度に評価せず、ペニスはペニス、他ならぬ男自身のための道具とみなす。シンボルやディスプレイのような意味よりも、実用的意味を重視する。こうした考えの方がやはり一歩真相に近づくことができるだろう。  しかし少々疑問に思うのは、精液を遠くまで飛ばすためなら長さだけ伸びればよいのであって、幅まで広がる必要がなぜあったのかということである。肉体を改造することには大変なエネルギーが必要で(といってもそれは進化的エネルギーだが)、全く意味もなくそのような改革は起きないものなのである。幅が広がったことにはよほどの意味が隠されているに違いない。そしてこの説にとって決定的であるのは、人間よりもはるかに|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》の激しい社会に生き、精液をより遠くへと飛ばす必要のあるチンパンジーが、人間ほどにはペニスを発達させていないということだ。彼らのものは、長さは人間の半分程度、幅となると一センチメートルあるかどうかなのである。人間でペニスが発達したことには、精液の噴射以外のもっと別の重大な理由が隠されているはずなのである。噴射でないとしたらそれは何だろうか。  そこでまたまた登場するのがR・ベイカーとM・ベリスである。彼らの研究活動はボランティアを相手に実験をしたり、女性誌でアンケート調査をするというだけに留まらない。人間の性行動に対する彼らの関心はもはや誰にも止めようがない。それは当然のことながら、全霊長類中最大のサイズを誇るペニスにも及ぶのである。人間でペニスが発達したことの理由を、彼らは形にやたらこだわって考える。なぜ人間のペニスは先の方があのような�どんぐり形�をしているのか。勃起したペニスはまるでピストンのような形だが、それはまさしくピストンの役割を果たすのではあるまいか……。  彼らはまた、人間の性交時間が長いこと、当然スラストの回数が多いことにも着目する。なぜ人間は何十回、何百回もバッコンバッコンとスラストしなければならないのか。射精のためにはそれほどまでの刺激が必要だというのだろうか。人間に比べれば類人猿の交尾は実にあっさりとしたもので、約一〇分のオランウータンを別にすれば、ゴリラは一分半、チンパンジーともなるとわずか七〜八秒である。チンパンジーのスラストは平均すると八回くらいで、早い場合には本当に�三こすり半�で済んでしまうのである。射精のための刺激というものは、本来それほど必要とは言えないようなのである。一方、人間の性交時間は二〜一〇分くらい、スラスト回数は一〇〇〜五〇〇回にも及ぶのだ。  これら自らの問題提起に対し、ベイカー&ベリスは驚くべき解答を用意する。人間の性交時間が格別長く、スラストが何回も繰り返されるのは、射精に先立ち、ペニスがまず前回射精の男(それは自分自身のこともある)の精液をかき出すためではないのか。かき出せないまでも、奥の方の精子を引っ張り出し、膣の強い酸性にさらして弱らせようとするのではないのか。こうしてペニスは、女の生殖器が自分にとってよりよい条件になるようセッティングするのである。長く、太く、ピストン形のペニス、特に�どんぐり形�の亀頭は精液のかき出しに実にぴったりの条件を備えているのではないだろうか──。  彼らは膣の中でのペニスの動きを六分割にした図に示し、解説するという熱の入れようである。膣にぴったりとフィットしたペニスが、挿入とともにその奥深くへと入っていく。引けば内部のものを強力に吸引する。ペニスは長く、太い方がピストンとしての役目をよく果たすことは言うまでもない。他の男の精子をよくかき出す男ほど|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》によく勝利することができるだろう。こうして男のペニスは長く、太く、かき出しに適するよう先が�どんぐり形�に進化してきたというわけなのである。彼らはこの考えを「サクション・ピストン仮説」と名付けているのである。サクションとは吸引、の意だ。  何回もスラストを繰り返すのは、かき出しをより念入りなものにするためだろう。同時に人間の男のペニスは、ある程度の時間をかけ、何回も刺激しなければ射精しないという性質を備えてきたのである。ベイカー&ベリスはこの「かき出し」というアイディアを、ある種のトンボなどに見られる�かえし�の付いたペニスに想を得ているらしい。カワトンボの一種のオスなどではペニスにいくつもの「かぎ」と無数の後ろ向きの剛毛が生えており、これら�かえし�でまず前のオスの精子を、といっても束になった固まりを取り除く。然《しか》る後に自分の精子を注入するのである。これらのトンボはかき出しのために相当な時間を費し、それがために交尾時間がトンボとしては例外的に長い。種によっては数時間にも及ぶのである。なるほど人間で性交時間が伸びたのも、トンボと似たような事情が発生したからなのだろう。  サクション・ピストン仮説は素晴らしく見事だ。ついに人間の、巨大でヘンな形のペニスの謎《なぞ》は解き明かされた。類人猿《ヒトニザル》の歴史始まって以来の謎が。ただ、疑問に思うことがないわけではない。チンパンジーなどは人間よりもはるかに|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》の激しい社会を作っているが、そのわりにはペニスを発達させていない。なぜだろう。かき出しに適したペニスを……。彼らにはかき出す必要がないということだろうか。まさか、そんなわけはない。彼らほどの|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》の激しい社会で、かき出せるものならかき出した方がいいに決まっているのである。では、なぜかき出さないのだろうか。  こういうことかもしれない。考えてみれば、メスは日に何十回と交尾するのである。オスがペニスによって精子をかき出すにしろ、かき出した後、自分の精子を注入するはなから、今度はそれがかき出される運命に変わってしまう。バカげている。第一、他のオスにせっつかれ、かき出しているような時間的余裕はない。チンパンジーのオスは、かき出し競争はやめにしようという協定を結んだのかもしれない。その結果が�三こすり半�というわけなのだ。  人間の男は「かき出し」で勝負する。だから男は日頃|睾丸《こうがん》ではなく、ペニスで張り合っているのである。ペニスは男のシンボルだ、などと。片やチンパンジーは睾丸を発達させ、精子の製造能力で勝負する。チンパンジーのオスの�男だけの会話�に耳を傾けたなら、彼らはペニスではなく睾丸を自慢しあっていることだろう。 [#改ページ]  早熟のアフリカ人、奥手のアジア人 人間も動物の一種[#「人間も動物の一種」はゴシック体]  J・P・ラシュトンというちょっと風変わりな心理学者がいる。カナダはウエスタン・オンタリオ大学のれっきとした教授なのだが、彼は心理学に進化論の観点を導入しようとする人である。人間の行動や心理についてこれまでとは全く違う角度からの見直しを図ろうとする。その見解には従来の心理学ではとうてい考えられぬ、あっと驚くようなものが続々登場する。それだけならいい。絶賛されるべきことでさえある。ただ彼は、人間に普遍の性質を探るべく、人種ごとの違いを非常に問題にする。その点が人々を刺激してしまうのである。  人種ごとの比較をしたからといって、それが悪いという道理はない。ある動物の行動を知りたくて、たとえばカワウソの行動を知りたくてアフリカのカワウソとヨーロッパのカワウソ、そしてアジアのカワウソとを比較する。それは当たり前の手法なのだ。その対象がひとたび人間に振り向けられるや、突如目の色を変える人々が一部に現れるということなのである。  ラシュトンはしかし、当然と言うべきかその一部の人々から猛攻撃を受けている。人種ごとの頭の大きさを比較し、論じたときなどあの『ネイチャー』誌上で口角泡を飛ばす議論が沸騰《ふつとう》した。彼を支持する人も一方には、少なからず存在する。しかし騒ぎは学界に留まらず、州知事は彼を停職処分にしろとまで要求した。幸い、大学側がそれを拒否し、彼の首はつながったというが、それにしてもこの人はそんなにも�悪い�人なのか。頭の大きさについての研究とは次のようなものである。  米軍の兵士が入隊の際に受ける身体検査項目の中に、頭のサイズがある。頭長(前後の長さ)、頭幅、頭高(耳の穴から頭のてっぺんまで)を測定する。ヘルメット支給の都合上、それはどうしても必要なのである。ラシュトンはそこに目をつけた。アメリカは多民族国家であり、三大人種のデータがたちどころに集まった。人種ごとの頭の大きさ(頭蓋骨《ずがいこつ》容量)は以下の通りである。  〈人種ごとの頭の大きさ〉(平均値)[#「〈人種ごとの頭の大きさ〉(平均値)」はゴシック体]  ニグロイド 一三四六ミリリットル  コーカソイド 一三六一ミリリットル  モンゴロイド 一四〇三ミリリットル    (『ネイチャー』三五八巻、一八七ページ、一九九二年より)  頭の大きさはモンゴロイド、コーカソイド、ニグロイドの順である。この結果が、もし人々に悪意を持って解釈されるとするならそれは、頭の大きさと知能指数との間に相関があるのではないか、ということである。  そこで大反発が起きた。いや、それどころか事前に内容をキャッチしたある研究者が、論文よりも先に批判の論説を発表するという珍妙な事態が発生したのである。ところが不思議であるのは、批判のほとんどがコーカソイドとニグロイドの違いしか問題にしていないことである。この結果をもし悪意に、しかもデータに忠実に受け取るとすれば、モンゴロイドが圧倒的に�賢い�ことになり、コーカソイド、ニグロイドの順で�劣る�ことになるはずなのに、モンゴロイドのことなどどこへやら、ひたすらニグロイドがコーカソイドより�劣る�とは何事かという議論なのである。それもたった一五ミリリットルの違いを問題にして。  ラシュトンの真意を代弁するのはなかなか難しい。彼自身の言葉で書かれたものを読まれることをお勧めする。たとえば『人種 進化 行動』(蔵啄也、蔵研也訳、博品社)という本は邦訳が出ている。それにしても私の見るところ、彼は真面目《まじめ》すぎるほど真面目、純粋すぎるほど純粋な人間だ。�差別�などという問題は、自身の中ではとうに超越してしまっているのではないだろうか。  しかしそれよりも、人種ごとの違いについてはこれこそラシュトンの本領発揮だというものがある。ペニスのサイズだ。それは頭の大きさどころの違いではないのである。  人種ごとのペニスサイズを初めて測ったのは(おそらく、であるが)一九世紀のフランスの、ある軍医である。その人は三〇年間にわたり性器、泌尿器《ひにようき》の病気の研究に取り組んだ、ということまではわかっているのだが、それが誰なのかは一〇〇年たった今もはっきりしない。彼は『人類学の未踏の分野』(Untrodden fields of anthropology, 1898)と題する本を匿名《とくめい》で出版している。以下はラシュトンが同書を手掛りに割り出した貴重なデータである(数値はもちろん膨張時)。  〈人種ごとのペニスサイズ〉[#「〈人種ごとのペニスサイズ〉」はゴシック体]  ニグロイド 長さ一五・九〜二〇・三cm/幅五・一cm  コーカソイド 長さ一四・〇〜一五・二cm/幅三・八cm  モンゴロイド 長さ一〇・二〜一四・〇cm/幅三・二cm [#この行3字下げ](『ジャーナル・オブ・リサーチ・イン・パーソナリティ』二一巻、五二九〜五五一ページ、一九八七年より。インチをセンチメートルに換算して表記)  いかがだろう。ニグロイド、コーカソイド、モンゴロイドの順であることは一目瞭然《いちもくりようぜん》だ。しかも重なりがないというほどに違う。もちろんニグロイドで小さい人もいれば、モンゴロイドで大きい人もいるわけだが、やはりその違いは歴然としている。なぜこんな違いが生まれてくるのだろう。  ラシュトンはなぜペニスのサイズに違いがあるかということについてもちろん議論している。しかしどうもそれはあまり具体的なものではない。性的な活発さ、早熟度、繁殖のサイクルなど、性的な問題について常に他人種を凌駕《りようが》しているニグロイドが、この件についても同様であるというだけなのである。  R・ベイカーとM・ベリスはどう考えているだろうか。彼らがこんな重大な問題を放っておくはずはない。だが、彼らにしてはやや的をはずしているかなという議論で、新生児の大きさがポイントだというのである。  新生児の大きさはニグロイド、コーカソイド、モンゴロイドの順である。女の産道の大きさもこの順で決まっているだろう。ということは膣《ちつ》もこの大きさの順であり、ペニスも──特にサクション・ピストンとして機能するためには──それにぴったりフィットするように進化する。だからやはりこの、ニグロイド、コーカソイド、モンゴロイドの順になっているのである──。  しかしそうすると、なぜ人種によって新生児の大きさが違うのだろう。その、そもそもの部分が疑問となる。むしろ逆に、ペニスが大きくなったから膣が大きくなった。膣が大きくなったから大きい新生児が通れるようになった、とする方が話の筋道としてありうるという気がするのだが。  ペニスの人種ごとの違いはなぜ生じたのか。それは、人間と類人猿とでなぜペニスの大きさに違いが生じたかという、まさにあの問題と同様に考えればよいのではないだろうか。人間と類人猿の関係を人種間の関係に置き換える。そして|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》という側面にスポットを当てて考えるのである。|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》の本家本元であるはずのベイカー&ベリスがこの観点に気がつかなかったとは、何とも不思議だ。  人間が類人猿に比べてペニスが発達したのは、ベイカー&ベリスによれば前の男の精子をいかにかき出すかという問題のためであった。ならば人種ごとの違いも、前の男の精子かき出しの必要に応じていると考えられはしないだろうか。ニグロイドはコーカソイドよりも、コーカソイドはモンゴロイドよりも、よりかき出しの必要性に迫られる。|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》はニグロイド、コーカソイド、モンゴロイドの順で激しかったし、今もそうなのではないだろうか。  もっとも、「浮気」や「間男」のような直接の証拠があるわけではない。ただ|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》の現在の激しさを示す、間接的な証拠ならあるのである。一九九二年にアメリカで行なわれた、性に関するある調査には「過去一二カ月の間のセックスパートナー数」と「一八歳以降のセックスパートナー数」という項目がある。調査は無作為抽出されたアメリカ人四千数百人(一八歳〜五九歳)について行なわれている。回答率七八・六パーセントと信頼性も高い。人種ごとの結果は以下の通りである(男女の区別はつけられていない)。  〈過去一二カ月のセックスパートナー数〉[#「〈過去一二カ月のセックスパートナー数〉」はゴシック体]  ニグロイド 〇人一三%/一人六〇%/二〜四人二一%/五人以上六%  コーカソイド 〇人一二%/一人七三%/二〜四人一二%/五人以上三%  モンゴロイド 〇人一五%/一人七七%/二〜四人八%/五人以上〇%  〈一八歳以降のセックスパートナー数〉[#「〈一八歳以降のセックスパートナー数〉」はゴシック体] [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  ニグロイド 〇人二%/一人一八%/二〜四人三四%/五〜一〇人二四%/一一〜二〇人一一%/二一人以上一一%  コーカソイド 〇人三%/一人二六%/二〜四人二九%/五〜一〇人二二%/一一〜二〇人一一%/二一人以上九%  モンゴロイド 〇人六%/一人四六%/二〜四人二五%/五〜一〇人一四%/一一〜二〇人六%/二一人以上三% [#ここで字下げ終わり] [#この行3字下げ](『セックス・イン・アメリカ』R・T・マイケル他著、近藤隆文訳、上野千鶴子解説、NHK出版より)  一目瞭然の結果であるが、一応の分析をしてみよう。過去一二カ月の間に、たとえば二人以上のセックスパートナーを持った者の割合は、ニグロイド二七パーセント、コーカソイド一五パーセント、モンゴロイド八パーセントである。一八歳以降に、たとえば五人以上のセックスパートナーを持った者の割合は、ニグロイド四六パーセント、コーカソイド四二パーセント、モンゴロイド二三パーセントである。|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》の激しさはニグロイド、コーカソイド、モンゴロイドの順のようなのである。もっとも、たとえば女がいくら多くのセックスパートナーを持ったとしても、前の男ときっちり別れてから次の男と、というような付き合い方をすれば少なくとも彼女の中では|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》は発生しないことになるだろう。けれども皆が皆そういう律義《りちぎ》な付き合い方をするわけではない。男にしろ女にしろ、付き合ったパートナーの数が多いということは、即《すなわ》ち|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》が激しいこととみなして差支《さしつか》えないのである。  さらにラシュトンが調べたところによると、最初の性体験の年齢は人種によってこう違う。  〈最初の性体験の年齢〉[#「〈最初の性体験の年齢〉」はゴシック体]  東洋人 一七歳未満二四%/一七歳以上七六%  白人 一七歳未満三七%/一七歳以上六三%  黒人 一七歳未満六四%/一七歳以上三六%    (『人種 進化 行動』より)  黒人、つまりニグロイドの早熟ぶり、東洋人、即ちモンゴロイドの奥手ぶりがいやがうえにも目立ってしまう。早熟であることイコール|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》が激しいとは限らないが、少なくともニグロイドは早い時期から性の世界に足を踏み入れている。コーカソイドはそれに次ぐ。そして先のパートナー数についての調査結果と考えあわせれば、やはりニグロイド、コーカソイドは生涯を通じて性の営みに忙しく、社会の|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》の激しさも一入《ひとしお》だろうと予想されるのである。ペニスが発達したのは、やはりそのせいではないだろうか。 [#改ページ] 第四章 男と女の来《こ》し方、行く末[#「男と女の来《こ》し方、行く末」はゴシック体]  同性愛の謎《なぞ》に迫る 同性愛遺伝子の発見[#「同性愛遺伝子の発見」はゴシック体]  あの有名なキンゼイ報告は、一九三〇〜四〇年代のアメリカの性事情をレポートしたものである。元々は昆虫学者で、ハチの研究をしていたアルフレッド・キンゼイだが、数人の学者仲間とともに人間の性について大々的な調査を行なった。あわせて性調査研究所を設立した。男に関しては四八年に、女に関しては五三年に報告書が提出されている。  人々が何といっても衝撃を受けるのは、同性愛について触れられている部分だろう。キンゼイは、それまでの人生で少なくとも三年間、主として同性愛であったという男は全体の一三パーセント、同性愛一筋である男は四パーセントであるとしている。同性愛によって一度でもオルガスムスを経験したことがあるか、ということになると何と三七パーセントもの値が出るのである。さすがはアメリカだ、と感心したことがあるが、最近になってそれは多分に見積もりの過剰だったのではないかという声が出ている。  一九九〇年代になってイギリスとフランスでそれぞれ行なわれた調査によると、同性愛によるオルガスムスを一度でも経験したことがあるという男は、いずれもおよそ四パーセントだった。同時期のアメリカでの調査もほぼ同じレヴェルである。生涯にわたり同性愛一筋ということになるとむろんさらに値は低く、一パーセント以下であろうと推定されているのである。一九三〇〜四〇年代のアメリカがたまたま同性愛の時代であったのか、はたまたキンゼイの調査方法に何か問題があったのか……。しかし、そうだとしても同性愛という現象は依然、異常というには多すぎる、といって普通というわけにもいかない、何か不思議なバランスの上に成り立っている。同性愛という現象はいろいろと謎だらけだが、その第一は、まずこの全体に占める割合というものなのである。  同性愛者の傾向として注目すべきであるのは、彼らのほとんどが二〇歳くらいまでの若い時期に初めての同性愛体験をすること、その後バイセクシャルとなるか、異性愛専門となるかするものの、とにかく生涯同性愛一筋という人は極めて少ないということである。ある文化人類学者の研究によれば、太平洋のメラネシアの島々の若者たちはそのほとんどが通過儀礼のように同性愛を経験する。ところがそれでも、生涯を通じて同性愛のみであるという男は滅多にいないのである。つまりこれだけ見ても、同性愛はただ同性愛のためならず、という様子がうかがわれるのだ。  我々は同性愛という一見�奇異�な、一見�無意味�と思われる行動に目を奪われがちである。  同性を愛するなんて気持ち悪い。  同性愛者は、同性を異性と誤認してしまうのだ。  同性を愛するという子ができない行為を通じ、どうして彼の�同性愛の遺伝子�が受け継がれるのだろうか?  etc、etc。  しかしそれでは、いつまでたっても事の本質に気づくことはできないだろう。同性愛は、同性愛という現象にだけ注目していてはだめなのである。同性愛の裏には必ず異性愛の影がある。実は同性愛者のかなり多くが、異性愛によって自身の子を残しているのである。とすれば同性愛は、たとえ行為そのものの結果として子が得られなくとも、他ならぬ繁殖戦略の一つの形、彼の繁殖活動の一部分と考えられはしないだろうか。同性愛者は子を残さないという先入観がいけないのだ。  とはいうもののである。そんなこととは無関係に、同性愛は異性愛の単なる代償である、という考えもあるにはあるだろう。寄宿学校や軍隊など、若い男の集団生活の場は、即《すなわ》ち同性愛の花盛りである。あり余る性のエネルギーが同性へ向けられたとしても不思議はないのかもしれない。若い頃に同性愛を経験しても、その後はないという男が多いのは、結局そういうことであるのかもしれない。  しかしそうだとすると、なぜ同性愛を受け入れられる男とそうでない男とがいるのだろう。ダメな男はどうしたってダメなのである。彼はいくら女に不自由していても、男で代用しようなどとは夢にも思わない。どうしてそうはっきりとした違いが現れるのか。それはやはり遺伝的な違いが絡《から》んでいるから、繁殖戦略の違いだからとしか言いようがないのである。同性を愛することが、いや正確には同性を愛しつつ、あるいは過去に同性を愛したことがあって異性も愛するということが、自分の遺伝子をよく残すことにどうつながるのか。そのパラドックスについてはこの先ゆっくりと説明していくことにしよう。  女の同性愛者の割合はどんな調査であっても常に男の場合を下回る。半分か三分の一である。しかもその体験はかなり年齢が高くなってからのことが多く、パートナーの数も少ない。ここでは女の同性愛については保留ということにさせていただこう。  同性愛行動は遺伝的なものだろうか、環境の影響によるのだろうか。おそらくそのどちらもが関係しているはずだが、こういう遺伝か環境かという問題に対し、伝統的に行なわれてきたアプローチの方法は、双生児を調べるということである。一卵性双生児と二卵性双生児を比較する。  一卵性双生児は受精卵が妊娠の早い段階で二つに分かれた結果で、遺伝的に全く同じである。血縁度、つまり遺伝子を共有する割合で血縁の近さを示す尺度は一である。他方、二卵性双生児は最初から卵は二つであり、それぞれが違う精子によって受精している。いわば同時に生まれたキョウダイのようなものである。血縁度は二分の一。一卵性双生児からは遺伝以外の要因がどれくらい影響を及ぼしているか、一卵性と二卵性の比較からは遺伝的な差が現実にどれほどの違いとなって現れるかがわかってくるだろう。  一九五〇年代のこと、F・J・カルマンという遺伝学者が調べたところ、驚くべき結果が現れた。少なくとも一方が同性愛者とわかっている双生児について調べてみる。すると一卵性双生児四四組のうち他方も同性愛者であったのは四四組すべてだった。片や二卵性双生児五一組では一三組。つまり、カルマンのこの結果によると遺伝的に同じである場合、片方が同性愛者なら他方も必ず同性愛者ということになり、同性愛は遺伝のみの問題であり、環境は全く関係ないという話になってしまうのである。  しかし、いくら何でもこの話は変である。同性愛者かどうかの判断は非常に微妙なもので、たとえば少しでも同性に興味がある者を同性愛者とみなすなら、かなりの男、それも異性愛者が同性愛者と判定されてしまうだろう。カルマンは同性愛者について過剰に見積もっていたのかもしれない。それにまた、彼の調査対象には少し偏りがあるのではないかという疑問も寄せられた。  結局、一九六〇年代になってL・L・ヘストンという精神科医が調べたところによると、同性愛には遺伝と環境の両方が関係する。双生児の一方がそうなら他方もそうであるというケースは、一卵性双生児五組中二組、二卵性双生児七組中一組だったのである(やや例数が少ないのが気になるが)。また、彼がある一四人キョウダイを調べた結果では、その中に男の一卵性双生児が三組も含まれていたが、うち二組は二人とも同性愛者、一組は二人とも異性愛者だった。こうして同性愛の原因は遺伝、環境の両方にまたがっている。それぞれどれくらいの重きをなすかはわからないが、まず遺伝的要因に対して環境が働きかける、それらが複雑に絡まりあいながら現象が形成されてくるのだろうという見方が固まってきたのである。  環境要因から見てみることにしよう。一つの有力な候補と考えられているのは、ストレスである。妊娠中の母親が極度のストレスにさらされると胎児のホルモン環境に影響が出る。そのため男の胎児の脳が男としての発達を十分に遂げなくなるというものだ。  男の胎児は妊娠のある時期になると、何と自分の睾丸《こうがん》から男性ホルモンを分泌《ぶんぴつ》する。自分で自分の脳を男性化しようとするのである。こうして男性ホルモンの�洗礼�を受けて初めて男の脳へと分化する。ストレスによってこの洗礼がうまくいかないと、男であっても心は女ということになってしまうわけである。  とはいえこの仮説を、まさか人間で実験的に確かめるというわけにもいかない。アメリカのI・L・ワードはラットを使い、こんな実験を試みることにした。  妊娠したラットに対し、妊娠一四日から二一日までの間、一日三回、各四五分間ずつ強いストレスを与える。狭いガラスチューブの中に閉じ込め、夜行性であるラットに対し、本来暗い時間帯であるはずなのに皓々《こうこう》と光を当てたりするのである。メスはストレスのためにオシッコをもらしたり、便をもらしてしまったりする。ラットの妊娠期間は二三日前後だから、これは妊娠の大分後の方の時期である。一方、何もストレスを与えないというグループも対照群《コントロール》として用意する。  こういう過激なストレスを与えられたとしても妊娠と出産には影響がなかったようで、どのメスも二三日前後で出産した。そしてオスの子どもは生後三カ月たち、ラットとして十分に大人になったところであるテストを受けることになる。メスを目の前に、どういう反応を示すか。ちゃんと交尾できるのか。これが毎週一回、三〇分間ずつ、六週間にわたり続けられるのである。  胎児のときストレスを受けたグループは、交尾も射精もうまくできない場合が多かった。対照群《コントロール》の連中の大半がうまくこなすのに、彼らは二割くらいの個体しか成功することができなかったのである。胎児期のストレスにより、十分にオス化していない模様である。とはいえ彼らは、オスを相手に同性愛行動を示すというところまではいかなかった。  ワードはそこでそれらのオスを去勢、女性ホルモンを投与するという、思い切った措置を施した。早い話が性転換手術を行なったのである。然《しか》る後、精力満々の堂々たるオスと対面させてやる。  ストレス・オスはこの�男�の匂《にお》いをプンプンと発するオスに対し、多くの場合メスの性行動の一つであるロードシスで応答した。ロードシスは背中を低くし、背が弓なりになるようそり返るという姿勢である。交尾の際にはオスのマウントの手助けをする。  一方、対照群《コントロール》のオスも同様の手術を受けたが、オスのマウントに対し、たいていは抵抗した。中にはロードシスらしき姿勢をとる者もあるにはあったが、反応が弱い。ストレス・オスは何といってもその三倍以上の頻度で反応したのである。胎児のときのストレスによって脳のオス化が阻《はば》まれる。逆にストレスを受けていないオスの脳はちゃんとオス化していて、いくら性転換手術をしても�メス�にはならないのである。  ワードは続いて、妊娠中のラットを殺し、胎児を取り出すという実験をした。いろいろな時期の胎児を取り出してみる。その血液中の男性ホルモンの濃度を測り、それらが日を追うごとにどう変化するのか、調べてみたのである。  ストレスを与えない場合、男性ホルモンの濃度は徐々に増えていって妊娠一八日目にピークに達し、その後は減少した。ストレスを与えた場合には(ストレスは妊娠一四日目から二一日目まで与えている)、その濃度は驚いたことに、まずストレスを与えることによって急激に高まる。ところが対照群《コントロール》の個体で濃度がピークに達する、肝心の一八日目頃にはむしろ落ち込み、その後どんどん下がってしまうのである。脳のオス化には、どうやらこの一八日目あたりのホルモンの状態が効いているらしい。そのときに男性ホルモンの濃度が十分でないと、オス化のスイッチが入らないようなのである。  ラットの研究をそのまま人間に当てはめるわけにはいかないが、人間でも非常に似た現象が見つかっている。旧東ドイツのG・ダーナーは一九三四年から五三年までの二〇年間に、ドイツで生まれた同性愛者七九四人について調べてみた。そうしたところ一九四二年から四七年にかけて生まれた者の割合が非常に多かった。むろん年|毎《ごと》に出生数は変動するから補正して考えている。この時期にはその他の時期に比べ、二〜三倍の高率で同性愛者が生まれているのである。  これはどうしたことかとダーナーが思案したところによると、その時期はちょうど第二次世界大戦とその後の混乱期に一致しているのである。つまり、妊娠中の母親が強いストレスにさらされた。人間の男の胎児が睾丸から盛んに男性ホルモンを分泌するのは、妊娠三〜四カ月の頃である。しかし強いストレスにより、中には脳が男性化する機会を失ってしまった者がいるということだろう。母親のストレスは確かに同性愛の原因の一部となりえているようである。  とはいえ母親がいくら強いストレスを受けたからといって皆が皆、同性愛者になるわけではない。同性愛者となるには、まず同性愛者になりやすいという遺伝的基盤がある。そこへ環境が働きかけることによって心や行動が総合的に決まってくるのである。件《くだん》の双生児の研究にしたところで、双生児は母親の体内に同時に宿っており、ストレスやその他の環境要因という点では同じである。ところがそれでも二卵性双生児の場合には、一方が同性愛者であっても他方はそうではないという例が相当に見つかる。遺伝的基盤がなければ、いくらストレスがかかっても同性愛者にはならない。やはり遺伝的要因というものは、あだや疎《おろそ》かにできない存在なのである。  そこで今度は遺伝という問題についてみる。遺伝はどんな影響力を持つのだろうか。同性愛の遺伝的要因を探るべく行なわれたのは、家系調査である。同性愛の遺伝子があるとしたら、どの染色体の上に、さらにはどのあたりの位置にあるのだろうか。まずは同性愛者の血縁者に当たり、その遺伝様式が調べられた。  アメリカ国立衛生研究所(NIH)のD・H・ハマーのグループは、同所のクリニックに通う男性同性愛者七六人についてインタビューをした。彼ら自身のこと、彼らの血縁者についてである。この七六人はエイズの治療のために通院している患者である。  彼らの血縁者のうち、父親も同性愛者であるというケースは一例もなかった。ということは同性愛の遺伝子は、父→息子というルートで伝わらないのだろうか。  同性愛者なら子を残さず、それは遺伝子が父から息子へと伝わる、伝わらない以前の問題ではないか、とお思いかもしれない。しかし同性愛者が子を残さないというのは誤った固定観念であり、実際は違うのである。かなりの割合の同性愛者が子を生《な》している。この結果だけでは�同性愛遺伝子�が父親経由で伝えられないとは言えないし、伝えられるかどうかもわからない。  ところが、である。同性愛者のオジやイトコにまで範囲を広げて調べると、驚くべき傾向が現れてくるのである。本人の父《ヽ》方のオジ一一九人のうち同性愛者は二人(一・七パーセント)であった。他方、母《ヽ》方のオジは九六人中七人(七・三パーセント)。父《ヽ》方のオバの息子八四人中三人(三・六パーセント)がそうであるのに対し、母《ヽ》方のオバの息子は五二人中四人(七・七パーセント)が該当するのである。母方の男の血縁者に同性愛者の存在する確率が高いのだ。しかし、これが母方であったとしても、いったん父→息子というステップを経ると母方であることの効果は消えてしまう。母方のオジの息子が同性愛者であるケースは五一人中二人、父方のオジの息子がそうであるのは五六人中三人、とほとんど差がないのである。どうやら同性愛の遺伝子(その中でも特に重要なもの)は、母親を経由し、息子へと伝えられているらしいということになるのである。  このようなはっきりとした傾向が現れる場合、考えられるのはこういうことである。問題の�同性愛遺伝子�は、性染色体のXの上に乗っているのではないか──。  というのも人間は二二対の常染色体と一組の性染色体を持っている。性染色体は男でX染色体とY染色体(XY)、女でX染色体を二つ(XX)という状態である。常染色体については両親から半分ずつ受け継いでいる。ところが性染色体では事情が異なる。男はYを父親から受け継ぐ都合上、Xについては必ず母親由来のものを受け継ぐのである。  もし�同性愛遺伝子�が性染色体のXの上にあるとすれば、きれいに説明がつくだろう。ある男が同性愛者のとき、彼の母《ヽ》方のオジや母《ヽ》方のオバの息子に同性愛者が現れやすいことも、母方であってもオジの息子などいったん男を経由すると母方の効果が消えることも、である。同じような現象は色覚異常や血友病について随分昔に見つかっている。どちらの遺伝子もX染色体上のだいたいの位置もわかっているのである。 �同性愛遺伝子�が性染色体のXにあるとして、はたしてそれはどのあたりにあるのだろうか。染色体の端から端まで塩基配列を調べなければならないのだろうか? ところがそれは、意外に簡単な方法で突き止めることができるのである。  こういう研究の手順としてまず行なうのは、二人ともその遺伝子を持っていると思われるキョウダイ、この場合なら同性愛者である兄弟をできるだけ数多く集めることである。彼らについて、X染色体上のどこにあるかが既にわかっている一連の塩基配列(これをマーカーという)を調べる。マーカーは何カ所もあり、それぞれにいくつものタイプがある。各々どのタイプであるかを調べるのである。兄弟二人とも同性愛者であるのなら、多くの場合彼らは、母親の持つ�同性愛遺伝子�を揃《そろ》って受け継いでいる。ということは�同性愛遺伝子�の近くにあるマーカーも、それが近くにあればあるほど兄弟揃って同じタイプのものを受け継いでいるに違いない(同じX染色体上のマーカーなのに、なぜ兄弟揃って受け継いでいたり、いなかったりするのかというとそれは、精子や卵など生殖細胞ができるとき、染色体には交差という現象が起きてマーカーどうしが別れ別れになってしまうことがあるからなのである。近くにあるマーカーほど離れ離れになりにくい)。その揃って受け継いでいる確率の、染色体上の濃度分布のようなものを出す。そして濃度の濃さから逆に、�同性愛遺伝子�のありかを突き止めるというわけである(もちろん最も濃い部分がそのありかである)。  二人とも同性愛者とわかっている兄弟は四〇組ほど集められた。彼らと、彼らの両親にも協力を要請し血液が採取され、X染色体上のマーカーについて調べられた。それによるとどうやら�同性愛遺伝子�は、X染色体の長腕(細胞分裂の際、紡錘糸が付着する動原体からの�腕�の長い方)の最も端の部分に存在する模様である。末端に近い部分のマーカーほど兄弟のタイプが一致するのである。こうしてついに�同性愛遺伝子�の(その少なくとも一つの)位置がわかってきた。�同性愛遺伝子�が存在するか否《いな》かではなく、どこにあるかという段階にとうに突入しているのである。  この研究が発表されたのは一九九三年だが、新聞や科学雑誌などのマスコミはたちまち騒然となった。大きな賞賛が与えられる一方、�同性愛遺伝子�などあるものか、という遺伝子|嫌悪《けんお》派による批判もやはり寄せられたのである。ちなみにこの、X染色体の長腕の最末端の近くには血友病、それにグルコース・6リン酸デヒドロゲナーゼという糖の代謝に関わる重要な酵素の遺伝子などが存在することがわかっている。  この�同性愛遺伝子�の研究は、少し特殊なケースについて行なわれている。異性愛の経験が全くないか、あったとしてもわずかであるという人に限っているのである。同性愛者全体からみれば、そういうケースはむしろ稀《まれ》だ。同性愛者の本流は、同性愛が異性愛と、たとえ時間的ずれがあるにしろ並行するというものだ。では、それら多数派の人々はここで見つかった�同性愛遺伝子�をどの程度持っているのだろうか。その他の�同性愛遺伝子�はいったいいくつくらい存在し、また彼らがどの程度持っているのか。そして環境要因などは同性愛の程度をどう決めていくのだろうか。わからないことはまだまだ残されている。  しかしともあれ同性愛は異性愛とセットになる点が重要なのである。同性愛がどうして繁殖の一つの手段となるのだろう──次にその驚くべきパラドックスについて考えてみることにしよう。 [#改ページ]  同性愛は「お手伝い」?「練習」? それとも……  同性愛は異常行動などではない。れっきとした適応的意味を持っている──。  とはいうもののその意味とは、いったいどういうものだと考えていったらいいのだろう。子を作ることに直接関わらないこの行動が、どうして遺伝子のコピーを残すことにつながるのか。多くの人々がこの難問に挑んできた。  古くから言われている仮説は、同性愛者は「スニーカー」ではないかということである。「スニーカー」は「こっそりオス」などと訳される。メスのしぐさや時に体の色までも変化させて真似《まね》する。あるいは真似しないまでも、体が小さいことなどを逆手にとり、無害なオスのふりをする。そうして優位なオスのガードをかいくぐってメスに接近、ちゃっかり彼女と交尾したり、卵を受精させてしまうようなオスである。優位オスはこのメスもどきのオスにすっかり気を緩めてしまうのである。  動物の世界でこういう現象は少しも珍しいことではなく、たとえばガガンボモドキという昆虫にはメスのゆっくりとした飛び方を真似てオスに接近、彼が持つメスへのプレゼントを奪って逃走してしまうオスがいる(これを女形《おやま》戦略という)。ゾウアザラシのオスは成熟すると鼻がゾウのように伸びてくるが、鼻がまだ十分に伸び切っておらず、体も小さいオスはメスのふりをすることが可能だ。彼は姿勢を低くし、鼻を隠しながらリーダーオスの目をかいくぐる。彼は、体は小さくともオスとして十分機能するのである。それにサケなどの魚では、受精の場には常にスニーカーの姿があると言っていいくらいである。  メスが産卵するや、一匹の体の大きい縄張りオスが放精する。するとさっきまであたりをウロウロしていた体の小さいオスたちが、これまた間髪を入れず、ダダダッと便乗の放精をするのである。そのドサクサ紛れぶりといったら、いったい何が起こったのか、事情を知らぬ者にとってはまるで見当もつかないほどである。メスを真似たり、無害なオスとして振る舞うことはオスにとって意外に効き目のある戦略のようである。  もっとも、いくら女のふりをしたところで人間の男が人間の男を、まさか女と見間違えるようなことはない。同性愛者の中には女装を好み、女になり切ろうとする人もいるが、それらの人々が、女と見間違えさせて男を安心させ、その男の女に接近、彼女をものにする……などというややこしいことを考えているかというと、そうではないだろう。人間の場合には少なくとも、男が女を真似て男を騙《だま》すというような芸は成立しにくいような気がする。  人間の同性愛者をスニーカーとみる場合、それは、「あんなナヨナヨしている奴《やつ》、とてもじゃないがオレのライヴァルじゃあない」、「あいつは同性愛《オカマ》者だから安全だ」などと男を油断させるという意味でのスニーカーだろう。もし自分の女が他の男と仲良くしていても、それが同性愛者とわかったなら男はたちまち気を許してしまうのである。女はそれをいいことに彼をボディーガード代わりにする。「女の気持ちをよくわかってくれる」などと恋の悩みの相談相手になってもらったりもする。そうこうするうち彼が豹変《ひようへん》して男の本性を発揮するとすれば、これぞまさしくスニーカー戦略ということになるわけだが……ただ、そのようなことが現実に起きているのかどうか、起きているとしたらどれくらい普通のことであるのか、残念ながら私は知らない。ぜひ知りたいところではあるのだが……。  スニーカー仮説と同様、古くから言われている考えはヘルパー仮説である。ヘルパーとは、ハチやアリのような社会性昆虫で血縁者の繁殖の手助けをする者(ワーカー)、鳥などで親の繁殖を手伝う者のことである。自分自身は子を産まないか、あるいはとりあえずのところ繁殖をおあずけにする。ヘルパー仮説は動物行動学界の異才、R・L・トリヴァースがそうではないかとまず一言触れ、大御所、E・O・ウィルソンが、最初は懐疑的だったもののやがて大乗り気になった。  ──自分の繁殖よりも血縁者の繁殖を優先させる。ヘルパーはなぜそんな、己の欲求を抑えたような行動をとるのだろうか。結論から言えばそれは、その方が自分の遺伝子をよりよく残すことができるからである。  ハチやアリの場合、それは彼らの持つ特殊な性質に由来している。彼らの性別は我々とは違い、染色体を二倍体(2n)で持つか、一倍体(n)で持つかで決まってくる(半倍数性)。前者がメス、後者がオスである。それがためメスにとっては、子よりも妹の方が血縁が近いという、我々から見れば何とも不思議な状況が発生してしまうのである(詳しくは拙著『そんなバカな!』、文春文庫を参照していただきたい)。そこでメス(ワーカー)は、自分で子を産むよりも妹が生まれてくることを期待する。彼女は女王バチや女王アリに働きかけ、メスの子、つまり自分にとっての妹を産むよう仕向けるのである。一所懸命女王様にお仕えしているように見えても、実は他ならぬ自分のため、自分の遺伝子を増やすために行動しているだけなのだ。  ヘルパーを持つ鳥としてよく知られ、よく研究されているのは、フロリダヤブカケスである。この鳥はその名の通り、アメリカはフロリダのカシやシイの木の藪《やぶ》の中にすんでいる。巣立ちをすると、メスは幾分離れた所に居を移すが、オスは生まれた場所近くに留まっている。彼は繁殖能力は既に備わっているというのに、翌年はまだ両親の次のヒナ、つまり自分の弟や妹の成長をサポートするのである。ヘビなどの捕食者からヒナを守り、他のフロリダヤブカケスからは縄張りを守る、と八面六臂《はちめんろつぴ》の活躍をする。  繁殖能力があるのに、なぜ自分で繁殖しないのだろうか。弟や妹は血縁度二分の一の存在であり、やはり血縁度二分の一の我が子とは遺伝的な損得勘定では同じことである。その点で問題ないと言えば問題ない。しかし能力がありながらそれを発揮させないとしたら、何とも惜しいことではないか。  実を言えば、この鳥の縄張りは大変混み合っており、新規加入の余地がないほどなのである。オスは繁殖したくてもできないというのが本当のところだ。そこで遊んでいても仕方ないので親の手伝いをする。チャンスが到来したら自分でも繁殖を始めるのである。  もし父親が死ねば、子育てを手伝ったという功績から縄張りを受け継ぐことができるだろう。それに──こちらのケースの方が普通なのだが──彼が縄張りの防衛を手伝うことで彼の一族がそれを拡大する。その新たに拡張した部分を自分の縄張りとするのである。ヘルパーが両親の手伝いをするのは、単にそうして間接的に繁殖するというだけでなく、やがて自分で繁殖するときのための下準備をしているとも言えるのである。  こうしてみると、何が何でも自分で繁殖しようとすることだけが遺伝子を残す道ではないということがよくわかる。たとえ繁殖能力を持っていたとしても繁殖を控える。そんな一見無駄と思えるような行為さえも、長い目で見れば得になるというケースもあるわけである。  人間でも同じようなことが言えるのかもしれない。とりあえずのところ自分に繁殖のチャンスがない場合には、血縁者の繁殖を助ける。そしてチャンスが訪れたなら本格的に繁殖するのである。それまでは同性愛でつないでおく……。それに、たとえば何か素晴らしい才能に恵まれた人、特殊な才能の持ち主などは、むしろ自分では繁殖せず、血縁者を助けた方が遺伝子を残すうえでよほど効率が良いのかもしれない。彼が才能を発揮することで社会的名声や地位が得られる。お金ももちろん入ってくる。そのことで血縁者の繁殖がどれほど助けられるかわからない。彼は彼の才能をいかんなく発揮するために、自分で繁殖するなどという�下世話�なことはむしろ避けるべきなのである。そのためには同性愛。同性愛活動によって、子どもができるという事態を極力避けるのだ。ヘルパー仮説は芸術や文化の世界に、しかもそれらの分野で超一流と言われるような人々に、なぜ同性愛者が多いのかという現象をよく説明するような気がする。それらの人々は、ヘルパーなのである。自身は繁殖しないことに意味がある……。  とはいうものの、である。同性愛者が動物行動学で言うところのヘルパーであるとして、血縁者の繁殖の手助けをするのはいい。だがそれならば、彼らはなぜあんなにも熱心に同性愛活動を行なう必要があるのだろう。同性愛者のパートナー数、性交回数は異性愛者のそれをはるかに上回るのである。ヘルパーは血縁者を直接、間接に助けるというヘルパー活動にこそ力を入れるべきで、同性愛活動はあくまで二次的なものに留めるべきではないだろうか。ヘルパー仮説は、同性愛活動そのものの意味を問われると途端に歯切れが悪くなる弱点があるのである。それはスニーカー仮説についても同じだ。男を油断させるためだけなら、スニーカーも同性愛に力を入れる必要はない。活動はほどほどにし、「あの人は同性愛者なんだって……」という噂《うわさ》を流す程度に留めるべきだろう。  同性愛者は同性愛活動になぜあんなにも熱心なのだろうか。同性愛活動そのものの意味は何なのか。次に紹介する仮説は、この大いなる問題点を見事クリアーしている。それどころか、同性愛者の多くが時に女のしぐさを真似たり、また真似るのがうまいわけだが、それはなぜか(女と間違えさせようというわけではない)、女の同性愛者よりも男の同性愛者の方が数が多いが、それはなぜか、といった疑問にまで答えるスグレ物である。  それはプラクティス仮説という。同性愛はプラクティス、即《すなわ》ち「練習」だというのである。提出者は、またしてもR・ベイカーとM・ベリスである。彼らはこの仮説のために周到な準備を整えている。  ベイカー&ベリスによれば、そもそも哺乳類《ほにゆうるい》、特に霊長類のオスというものは、若いうちはとにかく交尾がヘタである。メスと対面させられてもドギマギし、何とかマウントしようとするものの方向を間違え、逆立ちしてつんのめってしまうオスがいるくらいである。おそらく交尾活動が、習わなくてもできるというほどには完全に遺伝的にプログラムされていないためだろう。つまり、初めてメスと対面したとしてもちゃんと交尾し、確実に彼女を孕《はら》ませようとするなら、まずメス以外を相手にした練習が必要なのである。実際、多くの霊長類で若いオスどうしが互いにマウントしあったり、マスターベーションしあったり、時にはアヌス(肛門《こうもん》)へペニスを挿入するなどして�練習�する光景がしばしば目撃されているのだ。  人間の男の同性愛も同じことではあるまいか。それが証拠に同性愛者のほとんどは学校時代や軍隊時代など、非常に若い頃に同性愛を覚え、後に異性愛にも転じているのである。同性愛で練習し、異性愛で本番というわけなのだ。同性愛で「練習」しない、ストレートの男もおり、そちらの方が多数派だが、同性愛者は「練習」を積んでいる分有利だ。それら未熟な男に先駆け、いち早く女を妊娠させることができるだろう。ベイカー&ベリスは同性愛が異性愛の「練習」となっているであろう根拠の一つとして、同性愛の性交《セツクス》で一番多いのがアヌスを利用したものだということを挙げている。膣《ちつ》の代用として最もよい練習台となるのはアヌスだからである。単なる性欲の処理ということなら、わざわざそういう病原体の巣のような箇所を利用することはないだろう。アヌスはそのようなリスクを補って余りある練習台なのである。  同性愛が異性愛の練習であるというのは、よくぞ思いついたものだと感心させられる。霊長類との比較で考えを進めるという点などはさすがという外はない。なるほど同性愛は「練習」なのだ。となれば行為自体に大変重要な意味が含まれてくることになる。この仮説は、同性を愛するという�無意味�な行動にいったいどんな意味があるのか、というこの問題についての長年の懸案に答えている点が他の仮説から抜きん出て素晴らしいのである。いや、本当に凄《すご》い。しかし……。  若い頃に同性愛で「練習」する。異性愛で本番を迎える。それはいいとして、疑問に思うのは、若い頃の「練習」のおかげでうまく性交《セツクス》できるようになった。結婚もし、子どももできた。そういう男が一方では、まだ「練習」を続けることがある。それはどういうことなのか、ということである。彼はもう立派に性交《セツクス》できるはずではないだろうか。  けれどベイカー&ベリスに言わせれば、それはちと考えが甘いということになる。彼らによれば、結婚して子どもができたからといって男の繁殖活動が終わるわけではない。家庭外の繁殖活動はそれからが本番である。そのためには「練習」、「練習」、日々「練習」あるのみなのである。なぜ、この期《ご》に及んでまだ「練習」なのかと思いたくなるが、それは違うのである。彼らが明らかにしたように、女の体は千差万別だ。特に受精の可能性を大きく左右するオルガスムスのパターンなどは、それこそ人の顔ほどにも違っている。女は妊娠しないようしないようにとオルガスムスのタイミングを無意識のうちに操作していさえもするのである。その恐るべきしたたかな女に打ち勝ち、特に家庭外の性交《セツクス》は女一人当たりの回数が少ないだろうから、少ないチャンスをものにする。そのためにはやはり日々の「練習」しかないのである。それも、できるだけヴァリエーションに富んだ相手(もちろん男)と何回も入念に「練習」する。実際、同性愛活動の盛んな男ほど異性愛活動も盛んな傾向にあることがわかっているのである。女の同性愛者に比べ男の同性愛者の方が、数が多く、パートナー数も多いわけだが、それはこのように男にはより多くの「練習」が必要とされるからなのである。女に比べれば男のオルガスムスのパターンなど実に単純で、せいぜい早いか遅いかぐらいの違いなのだ。しかも女と違って男はオルガスムスのふりをする、などという芸を持たない。男は単純明快だ。女は性交《セツクス》の練習をする必要にそれほど迫られることはないということになるのである。  同性愛者は時にオネエ言葉を発したり、しなを作ったりと女の真似をし、事実真似がうまいわけだが、それはこんなふうに説明している。  同性愛者が同性愛活動を行なうのは、男を女に見立て「練習」するためである。行為は一方が「練習」を済ませたら、今度は他方が、というように役割を変えて行なうのが普通である。同性愛者は本来の目的の他に、女役もこなさなければならないのである。だから同性愛者が女の真似をしたり、するのがうまいのは、当然と言えば当然のことなのである。彼らが日常的にふと女言葉や女のしぐさを出してしまったりするのは、それこそ「練習」のしすぎであるかもしれない。  但《ただ》し──ここが肝心の点であるのだが──女の真似がうまい男ほど練習相手として人気が高い。多くの男が「練習」すべくやって来る。ということはその、女の真似がうまい彼自身も多くの「練習」を積むことができるわけで、実際の繁殖の場でより大きな成功を収めることができる。彼の�同性愛遺伝子�も女の真似がうまいという遺伝的性質もよく伝えられる。こうして同性愛者は女の真似がうまいという性質をますます進化させてくることになるのである。彼らはただ単に女の真似をするのが好きで、真似がうまいというだけではないのである。  ふーん、なるほど。しかしそれにしても……、同性を相手に「練習」を積む。異性を相手にしたときにはバッチリ受精に成功する。そんな結構な性質を、なぜある男は持っており、ある男は持っていないのだろう。なぜもっと多くの男が同性愛者とはならないのだろうか?  決まっているじゃないか、そんなこと。同性愛者なんて気持ち悪くてなれるものか、第一白い眼で見られて差別されているんだよ、とおっしゃるかもしれない。確かに彼らは時に�差別�されている。�差別�されるのはどう考えたって有利なことではない。けれどそれを補って余りある利益が同性愛にあるとする。すると、�同性愛遺伝子�はどんどん増え続けていくだろう。増えれば同性愛者が多数派となる。多数派となれば、人間は男も女も両方愛するのが当たり前ということになり、�差別�されるなどということはなくなるのである。「気持悪い」という感情は、それ自体が消失することになるだろう。  なぜ同性愛者がもっと増えないのか。ベイカー&ベリスによれば、その原因の第一は感染症(性病)のリスクにあるという。パートナーの数の多さ、アヌスという出血しやすい部分を使った性交《セツクス》……。同性愛は性病の危険をあまりにも孕んでいる。エイズを例に挙げるまでもなく、同性愛の歴史は常に性病と隣り合わせだったのである。同性愛によるメリットをとるか、性病によるリスクを回避するか。ある男にとって同性愛の利益が性病のリスクを上回るとき、この行動が備わってきたに違いない。  もう一つ考えられるのは、同性愛者は増えすぎると過当競争に陥るということである。同性愛という繁殖戦略は、正統派とはちょっと違う、若干魅力的な異端の戦略である。こういう「正統」と「異端」が存在するとき、必ず起きてくる問題は「異端」による過当競争である。同性愛者についてみても、ある程度のところまで数が増えるが、そうすると今度は過当競争によって減る、しかしまた数が増えるというシステムが働き続けているのかもしれない。アンケート調査などで明らかにされる同性愛者の割合は、必ず数パーセントという不思議なバランスを保っている。その数値の裏にはこういう深い理由が隠されているのだろう。  プラクティス仮説は芸術やポップアート、ダンサーや美容師など表現の世界、センスや器用さが要求される世界になぜ同性愛者が多いのか(といってそれは世間で言われていることから判断しての話だが)、という現象をよく説明するような気がする。そういう世界の住人ではないにしろ、彼らがなぜ話し上手で人の心がよくわかり、人のケアーがうまいのか、といったことについてもよく納得させてくれそうである。  この仮説によれば、同性愛者とは言わば性と性のテクニックの求道者である。性に関してはプロとでも言うべき高水準にある人々である。性を介して人と人とが付き合い、付き合う過程で己の技術を磨いていく人々でもある。一方、あらゆる芸術表現は、元を辿《たど》ればどのみち性の問題に行き着くだろう。センスや器用さも同様で、しかもそれらは本来性愛の場で培《つちか》われるもののはずである。人付き合いの技術も同じ。芸術家もダンサーも美容師も、はたまたゲイボーイも、性愛の場における技術やセンス、アイディアを職業として転用しているにすぎないのではないだろうか。それらの水準の高さが、時に様々な分野の世界的才能となって開花しているような気がするのである。  話は少々趣味に走るが、イギリスのロックグループ「クイーン」のフレディ・マーキュリーは周知の通りバイセクシャルの人である。それも若い頃は同性愛と異性愛の同時進行で、後に同性愛専門になるという普通とは逆のパターンだ。彼は一九九一年にエイズで亡くなったが、彼の最後の恋人で元美容師のジム・ハットンが『フレディ・マーキュリーと私』(島田陽子訳、ロッキング・オン)という手記を著している。美しいものを愛し、子どものように傷つきやすい心を持つ、とにかく人に気を配る、淋《さび》しがり屋で人を集めてはにぎやかにパーティーを催し(それは女装パーティーだったりする)、どうしたら人を喜ばせられるか、自分の気持ちを愛する人に伝えるのにどう表現したらよいかばかりを考えているフレディ、仕事に対するのと同様のエネルギーを性交《セツクス》に注ぐフレディ、とそこにはフレディ・マーキュリーのすべてが語られている。プラクティス仮説と相まってふとそんなことを思い出したわけである。  結構ずくめのプラクティス仮説だが、探せば粗《あら》がないわけではない。同性愛者が性と性のテクニックのスペシャリストであるとして、その他の人々と若干違う性生活を送っているとして、それだけのことなのになぜあんなにも�差別�されなければならないのだろう。性生活の様式が違うこと、それが自分の理解の範囲外にあるということはかなり重大な問題である。しかし何も彼らを�差別�し、排除しようとまですることはないのではないか。何か変だ。これにはきっと裏がある。プラクティス仮説は十分説得力のある仮説で、おそらく同性愛という行動の大方の部分を説明し、明らかにするものではないかと思うが、どうもこの点が引っ掛かるのである。実は、プラクティス仮説とは全く別に私は以前、こんなことを考えてみたことがある。名付けて「兵役逃がれ仮説」。同性愛者をなぜ人々が�差別�し、�排除�しようとさえするのかという点に着目してみたのである。  私がこの仮説を思いついたのは、同性愛者が軍隊などでよく思われておらず、時にはクビになってしまい、本国や郷里へ送還されることがあるという話を聞いたからである。同性愛者は軍隊の集団生活の中に性を持ち込み、士気を低下させ規律を乱す。軍隊には�女�はいらないという理屈であるらしい。しかしそのとき思ったのは、軍隊から追放されるとは何を意味するかということだ。それは大変な恥であり、非難されるべきことであるに違いないが、一方ではこのうえなくラッキーなことではないだろうか。戦争で死なずに済む──。彼は多くの男が戦場で命をかけて戦っているときにも、まず有利に生き延びることが保証される。もし異性愛も行なえる状態にあれば、これぞ千載一遇のチャンスとばかりに銃後の女たちを次々ものにしていくこともできるだろう。不幸にもとりあえず同性しか愛せない状態にあったなら、異性愛に目覚めるまで気長に待てばいい。彼には兵士として召集される可能性はもはや打ち消されてしまったのである。こうして同性愛者は戦争と兵役という、人間に特有の特殊な状況の中で有利に自分の遺伝子のコピーを残してきたのではないだろうか。だから「兵役逃がれ仮説」なのである。人々が彼らを�差別�し、白い眼で見たりする性質を持っているのは、彼らが兵役逃がれという�国賊的�な方法で生き延び、子孫を残そうとしているからかもしれない。そのからくりを潜在的に知っているからではないだろうか。  兵役逃がれ仮説は、男の同性愛者が女の同性愛者に比べなぜ多いのかも説明する。戦争に駆り出されるのは男であり、女ではないからだ。同性愛者は西洋人に多く、東洋人に少ない傾向にあると思われるが、それは西洋の方が戦争の本場であり続けたからではないだろうか。戦争によるストレスが同性愛者を増す。この現象は兵役逃がれ仮説と、どこがどうということはないのだが、どこかでつながっているような気がしないでもない。兵役逃がれ仮説はもちろん完璧《かんぺき》なものではないが、同性愛行動の一つの重要な側面を、それなりに明らかにしてはいないだろうか、と私は自負しているのである(兵役逃がれ仮説について詳しいことは拙著『男と女の進化論』、新潮文庫を参照していただきたい)。  そうそう、そう言えば、あのリチャード・ドーキンスも同性愛について若干の意見を述べているのである。同性愛は過去の何らかの行動のタイム・ラグ的行動ではないか、つまり過去には適応的であったが、今は適応的ではないというのだ。彼にしては話に具体性がなく、いささか切れ味に欠けている。さしものドーキンスもこの件だけは、今一つの実感が湧《わ》いてこなかったのかもしれない。 [#改ページ]  男と女の来《こ》し方、行く末  数年前のことになるが、『愛はなぜ終わるのか』(吉田利子訳、草思社)という本が大そう評判を呼んだ。「人間は四年で離婚する!?」というコピーが帯に躍る、あの話題の書である。原題は邦題とはかなり違い、『Anatomy of Love』(「愛の解剖学」、一九九二年)という。  著者であるヘレン・E・フィッシャーは人類学者だ。彼女はあるときアメリカの結婚についての調査結果を眺めていて、はたと気がついた。続いて世界各国のデータにも目を通したが、どの国に関してもほぼ同じ傾向が現れてくるのである。  ──離婚は四年目に多い。  彼女はそこでクン・ブッシュマンのような、現代でも狩猟採集生活をしている人々の生活にも目を向ける。女たちの出産間隔は他の�文明化された�人々とは違い、だいたい四年ごとなのである。彼女たちは生後半年くらいで離乳食を与えるなどという不自然なことはせず、子が乳を吸い続けるのに任せている。授乳している限りは排卵が起こらず、次の子を身籠《みごも》ることもない。すると次の出産は四年後くらいということになるのである。狩猟採集生活をしていた我々の祖先も、おそらくこれくらいの出産間隔で子を産んでいたのだろう。  そうするとこの四年目の離婚傾向、そしてかつての我々の四年ごとの出産という二つの事項──何か関係がありそうである。もし関係があるとしてどんな関係がありうるのか。彼女はこんな推論をめぐらせる。  我々の祖先である初期人類は一夫一妻の婚姻形態をとっていた。但《ただ》しそれは、パートナーとの間に一人子を生《な》し、その子が離乳し次の子ができるかどうかというときが来たら、多くの場合今度は相手を変えて、というような形のものだったのではあるまいか。絆《きずな》は永久に続くわけではなかった。「逐次的な一夫一妻」だったのである。そのとき遺伝的に獲得した性質を今も我々は持っている。結婚して四年もするとそろそろ、いや、ほとほと相手に嫌気がさし、相手の粗《あら》ばかりが目立ってしまう。別れた方がいいのかも……と離婚の二文字が頭をよぎるのである。子があってもなくても同じことである。もちろん関係の修復に成功(?)する夫婦もあるし、そもそも四年目の危機など存在しない夫婦だってあるだろう。  彼女の説は人々の感情によく訴えかけるように思われる。どんなに仲のよいカップルにもやがて飽きという感情が介入するときが来る。他の男、他の女の方が今のパートナーよりもよく見えてしまうのである。なぜか人間はそうプログラムされているようだ。それはできるだけ違う相手との組み合わせで子を作り、子孫にヴァリエーションをつけ、寄生者《パラサイト》などに対抗しようとする遺伝子の企《たくら》みなのだろうか。人間がかつて「逐次的一夫一妻」の婚姻形態をとっていたというのは、かなり信憑性《しんぴようせい》のある仮説であるように感じられる。私はフィッシャー説に俄然《がぜん》肩入れをしたくなってしまうのである。が、しかしここでひとまず、これ以外の仮説にも目を通してみることにしよう。この分野の議論は実を言えば諸説|紛々《ふんぷん》なのである。我々の祖先はどんな婚姻形態をとっていたのだろうか。  最も古くからある考え方は、原始乱婚説である。そのルーツは古代ローマのルクレティウスにまで遡《さかのぼ》ることができる。しかし文化人類学的手法によって初めてこの仮説に至ったのは、まさにこの学問の先駆者とされるL・H・モーガンである。一八七七年、彼は『古代社会』という本の中でこの説を提出した。その影響は多方面に及び、あのフリードリッヒ・エンゲルスが『家族・私有財産・国家の起源』(一八八四年)の中で大きく取り上げているほどである。原始乱婚説は社会主義思想と相まって発展した。  モーガンとエンゲルスによれば、そもそも私有財産というものがいけない。原始社会は乱婚的だったが、やがて私有財産が現れ、父から息子へと財産を相続する必要が生じた。乱婚的社会では父と息子の関係がはっきりせず、相続がスムーズにいかない。そこで発明されたのが一夫一妻の婚姻形態というわけである。  原始時代に人間の婚姻形態が乱婚的だったとする理論的よりどころは、�未開�部族の研究である。それらの社会にしばしば乱婚が見られ、あるいは一夫一妻制をとっているにしろ親族関係を表す言葉があいまいで、たとえば父とオジ、母とオバの区別がついていないなどということである。しかし二〇世紀に入り、文化人類学的研究が進むと、それらの根拠は多分に怪しいものだということがわかってきた。�未開�部族は決して乱婚的ではないのである。一夫一妻よりも一夫多妻の社会が多いとはいうものの、乱婚的ということはない。そんなわけで原始乱婚説は、今やすっかり廃《すた》れることになってしまった。  初期人類が一夫一妻制(永久的な一夫一妻)をとっていたと考える人も多い。あの今西錦司は一九五一年、『人間以前の社会』(岩波新書)の中でテナガザルに注目し、おおよそこんなことを言っている。  テナガザルは一夫一妻制をとっている。しかも類人猿のうちで、木から降りて最も巧みに直立二足歩行をするのがテナガザルである。直立二足歩行といえば人間の十八番《おはこ》だ。ゆえに人間の婚姻形態も昔は彼らと同じく一夫一妻制であった──。  いかにも今西的発想だ。この何とも言えぬ飛躍と言おうか跳躍が、私などにはたまらない魅力となるのである。現在の知識からすればややおかしな点もあるにはあるが、私は今西の勘というものに信頼を置いている。今西説が脚光を浴びるときが来ないとも限らない、と私は期待しているのである。  デズモンド・モリスも一夫一妻派(永久的な一夫一妻)である。『裸のサル』(原題『The Naked Ape』、一九六七年)で彼は文化人類学的研究の弱点を突く。  文化人類学が問題にする�未開�部族などは、進化の袋小路に迷い込んだような人々で人間社会の主流からははずれている。彼らをいくら研究したところで実のところ何もわからないだろう。人間の本質的な行動を知るためには、主流派の人々の何でもない行動に注目すべきなのだ。これこそ「健全なアプローチ」だろう。彼は言う。現在最も繁栄している人間の社会の婚姻形態はたいてい一夫一妻である。一夫一妻制こそが繁栄をもたらす婚姻形態で、一貫して人間社会の主流であり続けたのだ。  その昔『裸のサル』を読んだとき、私はモリスのこの観点に大いに賛成であった。全くその通りだ。文化人類学の研究はおかしい。�主流派�である我々自身を研究することが、我々の祖先を知る手掛りとなるだろう。  しかし、である。よくよく考えてみるとモリスの考え方も少しおかしいのである。一夫一妻制が現在繁栄しているからと言って、過去にもそうだった、我々の祖先の婚姻形態がそうだったとは限らないではないか。体形や体の特徴として残る痕跡《こんせき》などを手掛りに過去を推定するならともかく、婚姻形態という極めて流動的でいくらでも変化しうるものを根拠にするのは危険ではないだろうか。初期人類の婚姻形態が一夫一妻であったにしろ、なかったにしろ、この方法論に今や私は疑問を感ずるようになったのである。  一方、霊長類学者のサラ・B・フルディともなると時代がやや新しいせいか、近年になって得られた研究成果をもとに、様々な霊長類の社会の比較からこの問題に取り組んでいる。フルディは、子殺しという現象が発見されたことで有名なハヌマンラングールというサルの研究者だ。  彼女はまず、一夫一妻制をとる霊長類を考える。テナガザル、マーモセット、ティティモンキー、インドリ……。彼らの体の大きさに注目すると、いずれもオスとメスとでほとんど差がみられない。  一夫多妻制をとる者たちはどうか。ゴリラ、マントヒヒ、ゲラダヒヒ、ハヌマンラングール……。彼らの場合は今度はオスがメスよりもはるかに大きく、体重は時に二倍近い開きがあるのである。一頭のオスが何頭くらいのメスを従えているかという、一夫多妻の程度によってその開きも大きくなってくる。さらに乱婚的な婚姻形態の、チンパンジー、ボノボ(ピグミーチンパンジー)、ニホンザル、アカゲザルなどはどうかというと、オスがメスよりも心持ち大きいという程度になるのである。  では、これら霊長類の基準に照らし合わせてみて人間はどうだろうか。人間の体の大きさにはもちろん性差がある。しかしそれは、ゴリラのようにオスがメスの倍もあるというような違いではない。結局、現在の人間の体重の性差から推定される人間本来の婚姻形態は乱婚的か、ゆるやかな一夫多妻、つまり一人の男が二〜三人の女を妻としてキープするようなもので、少なくとも一夫一妻ではなかっただろうと考えられるのである。  フルディはダメ押しとして何百万年か前の人骨の化石にも目を向ける。それらの性差が現在の人類よりも大きい。だから過去の人類は、現生の人類から推定されるよりもさらに一夫多妻の傾向にあっただろうと考えているのである。彼女はこのような推論を『女性の進化論』(加藤泰建、松本亮三訳、寺田和夫解説、新思索社。原題『The Woman That Never Evolved』〈進化することのなかった女性〉、一九八一年)の中で述べている。本書で既に登場したR・L・スミスやR・V・ショートなども同様の考えで、一夫多妻派は案外多いのである。  フルディのこの本には同時に、オーウェン・ラヴジョイという人類学者の一夫一妻説も紹介されている。ラヴジョイによれば、人間の犬歯にはほとんど性差がない。それは一夫一妻制をとる霊長類の特徴で、ゆえに人間はかつて一夫一妻制をとっていたのではないか──。もっともそれに対しフルディは、人間はとうの昔に咬《か》みつくという攻撃方法をやめ棍棒《こんぼう》のような武器を用いるに至った、そのため犬歯が退化しただけである。婚姻形態|云々《うんぬん》は関係ないのだ、としている。  このようにいろいろな仮説を見てくると、それぞれに一長一短があり、なるほどどれ一つとして完全に否定し、葬《ほうむ》り去ることはできないようだ(乱婚説は別かもしれないが)。何もフィッシャーの逐次的一夫一妻説だけが「正しい」というわけでもなさそうである。特に一夫多妻説は、オス、メスの体の大きさの違いという形態などが根拠であるだけに、あだや疎《おろそ》かにはできない。いったい人間の祖先は、実のところどのような婚姻形態をとっていたのだろうか。なぜこのように諸説紛々なのだろう。  しかし、どうだろう。正解が逐次的一夫一妻であれ、永久的一夫一妻であれ、はたまた一夫多妻であれ(あるいはそれらの混合型かもしれない)、一つだけ言える確かなことがあるはずである。それは人間の婚姻形態には常に表と裏があるということだ。今ここで議論してきたのはすべて表の婚姻形態である。人間は表向きにはある婚姻形態をとりながら実は裏で、人妻が男と、亭主が若い女と(別に若くなくてもよいが)、というように複雑に通じあっているのである。もし本当に厳密に一夫一妻制や一夫多妻制を守っていたなら起こり得ない|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》が、裏の部分では起きているのである。婚姻形態論争にこれぞと思う結論が出て来ないのは、そういう裏の争いが存在するためではないだろうか。  私は『浮気人類進化論』(晶文社、一九八八年、現・文春文庫)で人間の進化というものを「浮気」を手掛りに考えた。浮気とは、実はどの類人猿の社会にも存在しない現象だからである。  チンパンジーは複数のオスと複数のメス、そして子どもたちから成る、数十頭から百頭くらいの集団で暮らしている。婚姻形態は乱婚的である。発情したメスは特にオスを選り好みするわけではない。オスも発情メスを特別ガードするわけでもない。オスとメスとの関係ははっきり定まっておらず、従って「浮気」などという状況は成立しえないのである。  ゴリラは一頭の優位オスが数頭のメス、そしてその子どもたちを従えてハレムを形成している。メンバーは常に行動を共にする。時折、まだハレムを持たない若いオスがメスを奪い去っていくこともあるが、メスは概《おおむ》ねオスの防衛と監視の下にある。やはりまた「浮気」はないのである。  オランウータンは少し微妙である。一頭の優位オスが、数頭のメスとその子どもたちをリードし、暮らしているが、各人は母子を別とすれば単独行動である。メスは発情したときに限り、オスの元へと参上する。しかし単独で行動するメスを、しばしば渡り者の若いオスが襲うことがある。例のレイプだ。確かに通常の関係外での交尾だが、しかしこれは浮気とは違うだろう。  テナガザルは一夫一妻制である。夫婦は常に行動を共にし、縄張りの防衛も共同である。従って他者の介入する余地はほとんどないと言ってよい。  ところが人間の男と女はといえば、何とも不思議な関係にある。四六時中一緒にいて男が女に監視の目を光らせるわけでもなく、もちろん乱婚的というわけでもない。男と女は一緒にいるかと思いきや一方で、互いの知らない別行動の時間を持つのである。しかもそのとき、オランウータンなどとは大きく違い、女は発情したままという大胆さだ。  表と裏──表向きの婚姻形態がありながら裏ではどうなっているやらわからないというのが人間の社会である。それどころか裏、つまり|EPC《ウワキ》の占める比重は意外に大きい。ベイカー&ベリスが明らかにしたように、|EPC《ウワキ》によって子が出来る可能性は相当に高いのである。  男は浮気相手の女とは、パートナーほどには一緒に過ごしていない。だから一回の射精で非常に多くの精子を放出するだろう(しかし既に説明したように、その後の研究によれば|EPC《ウワキ》のときには精子の数はむしろ少ない)。しかもキンカチョウやラットの研究、そしてベイカーのその後の研究によれば、「浮気のときには精子も元気」と来ているのだ。  女も女で無意識のうちに浮気相手の子を欲している。月経前の妊娠の可能性が最も少ない時期にはパートナーと実によく交わる。ところが排卵期にはしっかり浮気相手と交わるのである。パートナーとも交わるにしろ、パートナー→浮気相手という順にし、浮気相手に対しては妊娠の確率のより高い日を提供する。それはひたすら浮気相手を優遇する格好である。  |EPC《ウワキ》によってなぜ人間が進化したか。私はこう考えた。  人間を人間たらしめたライフスタイル──それは狩猟採集生活である。今ここに狩りからの帰り道で、他人の奥さんにふとした出来心を抱いた男がいるとしよう。彼女の亭主も狩りに出かけていて留守である。彼はどうするか。彼はまず彼女を�口説こう�とするだろう。人間の求愛の手段は、ガガンボモドキのように何も素敵なエサをプレゼントすることでもなく、クジャクのように美しい尾羽を広げて誇示することでもない。口説く、つまり言葉を弄《ろう》して相手をその気にさせることなのである。この�口説く�という能力に優れた男ほど|EPC《ウワキ》の場でさぞかし成功を収めてきたことだろう。こうして彼の�口説く�能力、ひいては言語能力が|EPC《ウワキ》によってよく次の世代に伝わる。またそのことにより人間全体の言語能力が高まってくるのである。最初は言語とは言えないほどの単なる音声だったかもしれないが、より複雑な、より魅力的な音声を発する男ほど|EPC《ウワキ》に成功する。そうして言語は徐々に複雑の度合いを増してきたのだろう。人間は、人間の最大の特徴の一つである言語能力を高め、それによって脳が発達、やはりまた最大の特徴である知能をも高めてきたと考えるのである。  女は言語能力を高める場を持たなかったのかというと、そんなことはない。女は男よりもむしろ言語能力が高いほどだ。女は女どうしのおしゃべり、情報交換の場を通じて言語能力を高めてきたのである。おしゃべりのテーマは男。亭主が浮気してやしないか、と女どうしで情報を交換しあう。どこぞにいい男はいないか、きのうちらりと見かけた男、あれはいったいどこの誰なのか、と延々しゃべり続けるのである。よく情報交換し、おしゃべりをする女ほど亭主の|EPC《ウワキ》をいち早く発見する。自分が|EPC《ウワキ》をするうえでも有利である。彼女は自分の遺伝子のコピーをよりよく残していくだろう。こうして女に言語能力が高まる。その能力は男の子孫にも女の子孫にも伝えられるから、人間全体の言語能力も高まるというわけなのである。  それにまた男は、|EPC《ウワキ》の隠蔽《いんぺい》工作を行なう。妻の追及に対し、話の辻褄《つじつま》をあわせたり、言い逃がれたり、妻を言いくるめようとしたりする。妻も妻で、亭主のウソと話の矛盾を見破ろうと必死である。|EPC《ウワキ》をしたのがこの逆で、妻の側であっても話は概ね同じである。このような過程を経ても、人間は言語能力と知能、脳を発達させてきたのだろう。  とはいえ人間は、誰も彼もが|EPC《ウワキ》に精を出そうとしているわけではない。特に男には|EPC《ウワキ》に極めて熱心な男がいる一方で、それほどでもないという男もやはり同じくらいの数存在するのである。言語能力に優れていることから前者を文科系男、理科系の才能を持っていることから後者を理科系男と私は名付けた。「理科系男」もれっきとした繁殖戦略者である。彼は|EPC《ウワキ》はあまりしない代わりに、しっかりと妻をガードする。言語能力に少々欠ける分、理科系の才能を持っている。女は目の前の男がはたしてどういうタイプであるのかと思いをめぐらせる。そういう過程を通じても、思考力、洞察力は備わってきただろう。  ただ、今ここでベイカー&ベリスの観点を取り入れるとしたら、『浮気人類進化論』にはこんな補足が必要になるかもしれない。  人間は|EPC《ウワキ》によって言語能力を獲得し、脳を発達させてきた。しかし同時にペニスを発達させた!  ベイカー&ベリスによれば、人間のペニスはサクション・ピストンとして機能すべく発達した。長さ、幅、先端の形……。前の男の精子をよくかき出すことのできるよう、かき出し能力を高めるために長く、太く、わざとらしい形に変化したのである。人間は|EPC《ウワキ》によって脳とペニスという、どの霊長類にも勝る二つの巨大なものを獲得したというわけである。  人間の婚姻形態には裏がある。しかし考えてみればその裏とは、何も|EPC《ウワキ》ばかりとは限らない。人間にはまだいくつもの裏のルート、繁殖の道が用意されているのである。売春、レイプ、同性愛……。  娼婦《しようふ》は幾人もの男と次々交わり、彼らに凄《すさ》まじいばかりの|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》の場を提供する。その激戦を勝ち抜いた精子を時に我《おの》が子種とする。彼女の狙《ねら》いはとにかく生存力、競争力に優れた精子、それも通常の繁殖の場ではとても得られないような金的を射止めることなのである。他方、娼婦を買う男はまさか子を作ろうとして行為に赴くわけではないが、中には娼婦の催す|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》のレースで見事一等賞に輝く者もいる。その結果の子が男であるのなら、彼はやがて父親と同様に娼婦のレースに参加し、親子二代にわたって一等賞を獲得するということにもなるかもしれない。実際彼はそれだけの素質を持っているのだから。  レイプは女にあぶれた男の一発逆転の繁殖方法だ。しかしそれは男の側ばかりの戦略ではない。少なくともベイカー&ベリスによれば、不幸にもレイプ男に犯されそうになった女は、まず試みに抵抗し、彼のレイプ男としての力量のほどを測る。力量十分とみなした場合に初めて性交《セツクス》を許すのである。そしてレイプのうまい息子を得、彼がどんどんレイプしてどんどん孫を作ってくれることを期待する……ということになるのだが。もちろん、これらのことはすべて|女の関知しない《ヽヽヽヽヽヽヽ》、|無意識の部分で《ヽヽヽヽヽヽヽ》行なわれているのである。  同性愛は一見、子を、自分の遺伝子のコピーを残さない行為のように思われるが、そうではない。彼は自分の繁殖を慎み、ヘルパーとして血縁者の繁殖の手助けをしようとしているのかもしれない。あるいは同性と交わることで性交《セツクス》の「練習《プラクテイス》」に日々情熱を傾けているのかもしれない。はたまたその芳《かんば》しからぬ行動によって兵役を逃がれ、他の男たちよりも有利に生き延びる、そして他を出し抜いて繁殖する……?  ことほどさように人間の繁殖方法、繁殖戦略は多様なのである。  我々は性交《セツクス》を人に見られたり、ましてマスターベーションの現場を見られる、過去の性体験や自分の体、特に性器の特徴を人に知られるなど、とにかく性に関する事柄を恥ずかしく思う、秘密にしておきたいという心を持っている。そんなおかしな心は他の霊長類は持っていないのである。彼らは交尾もマスターベーションも隠さない。現場を見られようが、性器を見られようが平気である。それは彼らが�下等�だからではないだろう。彼らにはそんな心など、必要ないのである。人間のこの羞恥心《しゆうちしん》には、繁殖の多様性というものがもしかしたら関わっているのかもしれない。繁殖戦略そのものでなくとも、性のテクニックや、男が女を、女が男を騙《だま》し、欺《あざむ》こうとする術策。それら諸々の情報が多様で、人に固有で、それらのものを隠そうとする意図が含まれているのではないだろうか。マスターベーションを罪と感じつつもこっそり行なうのは、何を隠そう、それを他人から隠蔽するためなのである。自分の情報が他人《ひと》に知られてしまっては、繁殖を進めていくうえで大いに不利である。それは相手が男であっても女であっても同じことだ。人間はそれらが多様であり、各人が固有の繁殖戦略や繁殖計画を持っているからこそそれを隠そうとするのである。  そういえば昼に活動する人間が夜に性交《セツクス》するというのも、不思議な話だ。思えばそれは、この隠すという効果を狙ってのことかもしれない。昼行性でありながら夜に交尾するサルは、人間をおいて他にはない。それは性の情報を、テクニックや体の特徴、いつ、誰と性交《セツクス》したかを他人から隠すためだろう。人間が唯一、性器を服などで隠すサルであるのも同じ理由からかもしれない。  ヘレン・フィッシャーは『愛はなぜ終わるのか』の中で、現代の工業化社会の男と女は何千年にも及んだ農業社会の様々な制約から放たれ、今や狩猟採集社会の生活に回帰しつつあると言っている。  フィッシャーによれば、諸悪の根源は鋤《すき》にあるという。鋤──つまりそれを使いこなすのにはかなりの力が必要で、女はとても歯が立たない農作業の道具──の発明が労働を男のものにした。それにより男の地位が上昇、相対的に女の地位が下降した。女は男に従属すべきものという男尊女卑の考え方が農業社会では支配的になったというのである。農業はまた、人間を土地に縛りつけ、離婚の選択など、男女の自由な関係を妨げるようにもなった。狩猟採集社会ではこんなことはなかった。女の地位は驚くほど高かったのである。それもそのはずで女が集めてくる果実や木の実、キノコは常に食卓の大部分を占めていた。男が持ち帰る、狩猟による肉はあまり当てにはされていなかった。彼らは狩りに失敗し、手ぶらで帰ることもしばしばであったのである(とはいえそれはウソであり、本当は狩りに成功したのだが、寄り道をしてどこかの誰かにプレゼントしてきたのかもしれない)。女もれっきとした職業を持つ現代の工業化社会は、この狩猟採集社会によく似ている。男と女がしばしば離れ、別行動をとるという点もそっくりである。農業にしても機械化が進み、�鋤�は無用の長物になりつつある。我々は農業社会の束縛から解き放たれ、自由になろうとしている──というのがフィッシャーの結論である。  なるほどフィッシャーの言うように、�狩猟採集社会�への回帰により、女はますます自由と平等を得るだろう。しかしそれは何も女ばかりではなく男とても同様のはずである。女が自由になる分、男も自由になることができる(?)。人間は繁殖戦略の多様性、自分流の繁殖の方法を取り戻していくだろう。人間を人間たらしめたいくつもの裏のルートは、今再びその真価を発揮し始めようとしているのかもしれない。 [#改ページ]  あ と が き [#ここで字下げ終わり] [#地付き]竹内久美子  精子競争《スパーム・コンペティション》について書きたい、とここ数年間思い続けていた。|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》とは、卵《らん》をめぐり複数のオス(男)の精子が争うことである。人間には関係のないこと、よほど特別な動物でない限り起こりえない現象と思われがちだが、そうではない。およそ人間の性を取り巻く局面は、ほとんどすべてが|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》に関わるといっていいくらいなのである。女をめぐる男どうしの争い、浮気、売春、レイプ、それにマスターベーションのような行為や、なぜ人間の性器があのような形状をしているのかといった問題まで|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》の領域である。  |精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》について調べてみると、研究は予想をはるかに上回って進んでいた。特にR・ロビン・ベイカーとマーク・A・ベリスの人間の性行動に関する研究は際立《きわだ》っている。よくぞここまでというほど果敢で革命的、想像力をかきたてる機知に富んでいる。これは是非とも詳しく紹介しなければ、と思った。まず第一に私が彼らのファンになってしまったのである。その素晴らしさは本書をお読みになってよくおわかりいただけたのではないだろうか。  本書のサブタイトルにあるBC(Biologically Correct)という言葉は、実は私の造語である。PC(Politically Correct)という言葉は存在する。研究社の『新英和中辞典』(第六版)によれば、「〈言語・慣習が〉(人種別・性別などの差別廃止の立場で)政治的に正しい」という意味である。それに対し、本書はBC、生物学的に正しいという観点で物事を論じている。たとえば、ちょっとばかり贅沢《ぜいたく》をしたいがために売春に走る女の子を考えが浅いと批判することをPCとするなら、BCはそういった一見浅はかな行為に、はたしてどういう生物学的な意味が隠されているのかと考える。レイプは男の戦略で女はひたすら被害者だとする考えをPCとするなら、BCでは女の側にも意味はありうるはずだと考える。  私はPCを認めないわけではない。それどころかブランド品欲しさに簡単に身を売ってしまう女の子には「バカなまねはおよしなさい。将来きっと後悔することになるから」と長々と説教を続けるだろうし、男のレイプには、やり場のない憤《いきどお》りを感じる。女がどれほどレイプの恐怖に怯《おび》えているか、レイプされた女がいかに人生を滅茶苦茶《めちやくちや》にされるか、とその撲滅のために立ち上がりたいと思うくらいだ。しかしパッと心が反転し、それらの現象がどういう生物学的な意味を持つのか、人間の進化の歴史にどう働きかけてきたのかと考えるとき、まるで違った見え方がするのである。こういうことは私に限らず、生物学に関わるあらゆる人に共通の精神構造ではないだろうか。  PCとBCとは、どちらが正しくてどちらが間違っているというものではない。PCだけでは足りない。BCだけでももちろんいけない。両方あって初めて本当と言える。但《ただ》し、ここで議論したのはPCではなく、あくまでBC!な話なのである。その点をどうかご理解いただきたい。  本書の執筆にあたって参考にした文献の一部は本文中に示した。この他にも、いくつもの学術論文を参考にしていることはもちろんである。ベイカー&ベリスの研究について詳しく知りたいという方は、Anim. Behav., 37, 867─869, 1989; 40,997─999, 1990; 46, 861─885, 1993; 46, 887─909, 1993; J. Mammal., 71, 479─480, 1990; "Human Sperm Competition"(Chapman & Hall)などをご覧になるとよい。  新潮社出版部の松家仁之氏には一年以上もの間、折に触れて暖かい励ましの言葉とアドヴァイスをいただいた。男の側からの感想というものを頂戴《ちようだい》した。出版部長の横山正治氏には内容についていくつもアドヴァイスを賜った。新潮社版で装幀《そうてい》と挿画の南伸坊氏にはまた仕事をご一緒させていただく喜びを感じている。  本書を完成させるために力を尽くして下さったすべての方々に心より感謝する次第である。 [#地付き](平成九年二月) [#改ページ]  文庫版あとがき  ベイカーのその後の研究については一部分本文に追加したが、彼はその後シンメトリーという観点を取り入れて|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》の研究を続けている。シンメトリーとは何ぞや? 知りたい方は平成十二年一月新潮社刊、拙著『シンメトリーな男』(現・新潮文庫)をお読み下さい。 [#地付き](平成十一年十一月) [#改ページ]  文春文庫化にあたって  この本は元々、一九九七年、新潮社から単行本、『BC!な話──あなたの知らない精子競争』として出版され、二〇〇〇年に文庫化された。が、この度、新たに文春文庫として再出発することになった。  科学の世界では毎年新しい発見がなされ、人々の見解も次々と変わっていく。仮説も続々発表され、その検証もなされていく。私は、この本で紹介した研究のその後、ここで書き切れなかった話題などを文庫化に際して、そして別の著作の中で付け加えてきたが、今回もそのよい機会である。一言追加してみようと思う。  それは「サクション・ピストン仮説」のその後である。この誰しも納得の仮説が、実験的に検証され、大変有力になったということだ。  といっても、実際に行なったのはベイカーたちではなく、アメリカのG・G・ギャラップ・ジュニアらである。ベイカーとベリスは既にコンビを解消しており、ベリスは研究活動を続けているものの、ベイカーは九七年に大学の職を辞し(辞めたのか、辞めさせられたのかは不明)著作や講演に活動の場を移している。 「サクション・ピストン仮説」。それは、男が射精に先立ち、何十回、何百回とスラストするのは、そうして前回射精した男(自分のこともある)の精子をまず吸引し、かき出しておいて自分の精子を送り込むのであり、ペニスの先端に�返し�があるのは効率よくかき出すためだという仮説である。  ギャラップらは、様々な生殖器のモデルを用意した。  A:人工のヴァギナ。  さる目的のために実際、市場に出回っているもの。非常に伸縮性に富む素材でできていて、長さ 一一・三センチ、幅 二・六センチ、ヴァギナの天井部分は五・一センチ。  B:ペニスのモデル、その一。  これも何らかの目的のために売られている。ラテックス製。長さ 一五・五センチ、幅 三・三センチ、返しあり。  C:ペニスのコントロール。  プラスティック製。長さ 一五・五センチ、幅 二・九センチ、返しなし。  D:ペニスのモデル、その二。  これも何らかの目的のために売られている。ラテックス製。長さ 一五・五センチ、幅 二・七センチ、返しあり。  さらに、コーンスターチを水で練って、ちょうど精液くらいの粘り気をもたせ、精液の代用とし、人工のヴァギナであるAに入れる(量についてもちょうど精液程度にあわせている)。そうしてB、C、Dのそれぞれによって手動でかき出してみるのである。  すると、返しのある、BとDではどちらも平均で九一パーセントのかき出しに成功したが、返しのないCでは平均で三五パーセントしかかき出せなかった。  やはりペニスによるスラストと先端の返しのある構造には、前回射精の男の精液をかき出すという意味があるのである。  さらにギャラップらは、ペニスには返しがあっても完全に挿入して初めて意味があるということ。つまり、完全挿入では平均で九〇パーセントの精液がかき出されるが、半分以下ではまったくかき出せない、七五パーセント挿入でも平均で三九パーセントしかかき出せないことを示している。  |精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》は単に交尾するかどうかではなく、交尾してからの問題である。これまでなかなか注目されなかった分野だが、これが生物の進化に想像以上の影響を与えていることがわかってきて、今どんどん研究が進んでいる。この問題については機会を見つけてまだまだ補足していかなければならないだろう。私としては嬉しい一方、既に言ったことが間違っていたらどうしようか、とドキドキの毎日なのである。  文春文庫化に当たり、高橋夏樹氏をはじめとする文藝春秋の方々、装丁の寄藤文平氏にお世話になりました。この場を借りて感謝申し上げます。 [#地付き](平成十八年五月)  単行本[#「単行本」はゴシック体] 一九九七年三月 新潮社刊  一次文庫[#「一次文庫」はゴシック体] 二〇〇〇年一月 新潮文庫刊 〈底 本〉文春文庫 平成十八年八月十日刊